メディアが作った”偽の悪役”!徳川綱吉の側近・柳沢吉保が悪役にされた理由と「忠臣」としての活躍

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メディアが作った”偽の悪役”!徳川綱吉の側近・柳沢吉保が悪役にされた理由と「忠臣」としての活躍

「成り上がり」への嫉妬

江戸幕府の側用人といえば、将軍の側近として権力を振るう〝悪役”のイメージが強いですね。

柳沢吉保(Wikipediaより)

その代表的な人物として、5代将軍徳川綱吉に仕えた柳沢吉保(やなぎさわよしやす[1658~1714年])を思い浮かべる人も多いのではないでしょうか。今回は彼の本当の人物像を前編・後編に分けて解説します。

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吉保はドラマ『水戸黄門』や『大奥』などの時代劇で悪役としてのキャラクターが定着しています。

しかし近年の研究では、実際の吉保は綱吉の行いを諫めもする忠臣で、慎み深く、自らが治める甲斐国の領民に対しても慈悲深く接していたことが分かってきています。

悪役に描かれた要因としては、吉保が館林藩主時代の綱吉の小姓組から、幕府政治に影響力を及ぼす立場にまで上り詰めた「成り上がり者」と見なされたことが大きいようです。その経歴が嫉妬されたんですね。

基本的に吉保は綱吉という将軍の側にいたため、諸大名は頭を下げざるを得ません。武家社会の階層秩序を乱す新興大名に権力を握られているというジレンマが、文芸作品の中で悪役像につながった可能性が高いと言えるでしょう。

では、そんな「作られた吉保像」が登場したのはいつからだったのでしょうか?

悪役像の登場

それは綱吉が亡くなってすぐの1709年のことで、事実に脚色を交えた「実録物」に描かれたのが最初でした。

そこでは、「嫡男を綱吉のご落胤と称した」「女性によって将軍の心を乱し思うように出世した」など、ゴシップめいたお家騒動の話がまことしやかに語られました。

またそういうものを庶民も求めていたのでしょう。吉保に関するゴシップ本は貸本屋の主力商品となり、講談や歌舞伎の題材にもなっています。

すでに江戸期にも、学者の間では「これは事実ではない」との批判がありましたが、完全に打ち消されるまでには至らなかったようです。

そうした傾向は近代に入っても変わりませんでした。かの徳富蘇峰も、大正期に著した『近世日本国民史』の中で、綱吉に対する吉保のイエスマンぶりを「迎合学の大博士」として断じています。

徳富蘇峰(Wikipediaより)

蘇峰ですらも過去の文献を無批判に紹介するほど、吉保の悪役像は「定説」だったのです。

将軍を諫めることも

近年の研究では、藩主の改易など諸大名に厳しい処罰をする綱吉を、吉保が諫めたことを記した史料も注目されています。

徳川綱吉(Wikipediaより)

幕府の正史である『徳川実紀』によると、「諸大名や御家人が法を犯すような罪をただすことは言うまでもありません。しかし、法を用いるに少しの思いやりや情け深さをもって行えば、みな法を恐れ、その恩を恐れ多く思います」と綱吉に諫言しているのです。

これは吉保の忠義を示すエピソードであり、将軍の判断の是非を常に推し量ってたことが伺えますね。

【後編】では、さらに吉保の人物像を掘り下げます。また、「側用人」という存在の実態についても見ていきましょう。

参考資料:中央公論新社『歴史と人物20-再発見!日本史最新研究が明かす「意外な真実」』宝島社(2024/10/7)
画像:Wikipedia

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