「べらぼう」なぜ田沼意次(渡辺謙)は徹底的に排除された!?理由を江戸幕府の政治理念から考察【前編】

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「べらぼう」なぜ田沼意次(渡辺謙)は徹底的に排除された!?理由を江戸幕府の政治理念から考察【前編】

「10代家治は凡庸な将軍だった。しかし、一つだけ良いことをした。それは、田沼主殿頭意次を守ったこと。今日の繁栄があるのはそのおかげだ。私は後の世の人々に、そう思われたい。」

田沼意次(Wikipedia)

【大河べらぼう】第19回「鱗(うろこ)の置き土産」では、徳川家治(眞島秀和)
の側室・知保の方(高梨臨)が服毒事件を起こし、それに衝撃を受けた家治が、田沼意次(渡辺謙)に「もう自分の実の子を持つことは諦める」と打ち明けるシーンが登場しました。

「今日の繁栄があるのは意次がいたからだ」という趣旨を述べる家治に対し、意次は感涙に咽びながら、「終生、上様にお仕えしとうございます」と応えます。

今回の【べらぼう】では、鱗の旦那(片岡愛之助)と蔦重(横浜流星)の和解シーンも大きな話題となりました。数々の確執を乗り越えた二人のやりとりは、本当に感動的でしたね。そして、江戸城内でも、家治と意次の心温まるシーンが描かれたのです。

 徳川家治 (Wikipedia)

しかし、町方で繰り広げられる蔦重たちの生き生きとした場面に比べると、家治と意次の場面には、どこか重々しく、悲壮感が漂っていたのに気付いた人は多かったのではないでしょうか。

実は、この重々しさこそが、やがて意次の立場が衰えていき、最終的には完全に排除されてしまう未来を暗示していたのです。

「意次を守った」と家治は言います。しかし、彼の死後、幕府内に意次の居場所はありませんでした。

では、なぜそんなことになってしまったのか?それは、初代・徳川家康以来の江戸幕府の政治的思想にありました。

今回は、江戸幕府が礎とした政治理念を、3回に分けてお話しし、意次の完全排除について考察していきます。

[前編]では、【べらぼう】で今後描かれていくであろう田村意次失脚までの経過について史実を基本にお話ししましょう。

家治の「知恵は譲りたくない」が重要なキーワード

「もう自分の実の子を持つことは諦める」と決断した家治は、「自分には二つやらなければならないことがある」と、悲壮感を漂わせながら決意を述べます。

一つは「養子をとって因縁を断つ」こと。もう一つは、「田沼たちを守る」ことでした。

「養子をとって因縁を断つ」とは、将軍位を巡る政争によって無駄に命が失われることを防ぐという意味です。また、生まれつき脳性麻痺だったといわれる父・家重の血を引く自分には、たとえ子どもが生まれても無事に育つか分からない。その悪しき因縁をここで絶つ、という決意でもありました。

徳川家重(Wikipedia)

そのうえで家治は次代の将軍に対し、「血筋は譲る。でも知恵は譲りたくない」と言い放ちます。

実はこの「知恵は譲りたくない」という台詞こそが、これからの「べらぼう」において幕府サイドの重要なキーワードになると思われるのです。

意知暗殺事件後も衰えを見せない意次の権力

家治の言う「知恵は譲りたくない。」の「知恵」とは、何を指しているのでしょうか。彼は、父・家重の政治が持ちこたえたのは、田沼意次松平武元(石坂浩二)、大岡忠相という三人の存在があったからだとし、彼らを自分の「知恵袋」と語っています。

しかし、ドラマにおけるこの時点では、三人のうち健在なのは田沼意次ただ一人。したがって、「譲りたくない知恵袋」とは、意次その人を指していると考えて間違いないでしょう。

大河ドラマ「べらぼう」公式サイトより

また、この時点とは、意次の子・意知(宮沢氷魚)が、1783年に若年寄に就任したという史実から見て、おそらく1780年頃と推定できます。

これ以後、意次は家治のもと「田沼時代」と呼ばれる政権を熟成させていきます。そのことは、意次の所領が1781年に1万石、1785年に1万石を加増され、最終的に5万7,000石に達したという史実からも裏付けられるのです。

松平定信(Wikipedia)

しかし、このような状況に、松平定信(寺田心)、一橋治済(生田斗真)ら反田沼派は、さぞや忸怩たる思いであったことでしょう。

実はこの間の1784年、田沼意知が江戸城内で佐野政言(矢本悠馬)により暗殺されるという衝撃的な事件が起きます。

定説では、この事件を境にして、意次の権力は急速に衰退していくとされますが、実際にはその翌年にも意次は加増されており、さしたる権力の低下は見られません。

反田沼派の面々は、もはやこれ以上の猶予は許されないと感じたのではないでしょうか。

徳川家治の死は複雑に絡んだ政治的陰謀が原因?

1786年8月、意次の後ろ盾であった家治が突然死亡します。死因は、脚気による心不全、感冒による内蔵衰弱などさまざまな説がありますが、身体がしきりに震え、激しく吐血したという異常な死にざまだったともいわれ、政治的な思惑が重なったうえでの毒殺の可能性も否定できません。

家治の死をめぐっては、その直後から大奥を中心に「意次が上様に毒をもった」という意次毒殺説が囁かれました。しかし、意次に家治を殺す理由は全く見当たりません。

むしろ、家治の死は、彼の死去を契機に意次を失脚させようとした反田沼派による何かしらの陰謀があったと考える方が自然なのではないでしょうか。

大河ドラマ「べらぼう」公式サイトより

そもそも、意知暗殺後の江戸では、佐野政言を称賛する声が広がり、田沼政治への批判が高まりました。そして、意知の死を嬉しがるような落書や戯れ歌が流行したとも言われています。

このような風潮に対し、当時のオランダ商館長イサーク・ティチングは世界に書見を発しています。

そこには、「田沼意知の暗殺は幕府内の勢力争いから生じた事件である。井の中の蛙のような幕府首脳陣の中で、田沼意知ただ一人が日本の将来を見据えていた。彼の死によって、日本が開国に向かう道は完全に閉ざされた」と。

彼は、田沼父子を快く思わない勢力が黒幕となり、佐野を使って意知を殺害させ、さらに反田沼の言論を煽ったことに確信を持っていたのでしょう。

このように「田沼たちを守る」と決意した家治は、その死もあって、結局は意次を守りきれませんでした。

意次の存在を徹底的に消し去った定信と治済

家治の死後、養子の家斉(一橋治済の長男)が11代将軍に就任します。これを機に松平定信と一橋治済は、意次の老中罷免を皮切りに、田沼派の一掃を断行します。

徳川家斉(Wikipedia)

意次は所領のうち2万石を没収され、大坂蔵屋敷の財産も没収、江戸屋敷の明け渡しも命じられました。その後、さらに所領を没収されたうえ蟄居を命じられ、2年後の1788年、失意のうちに江戸にて亡くなったのです。

田沼家は孫の龍助を藩主として、陸奥下村1万石に減封。その際、意次が心血を注いで築城した相良城は、徹底的に破却されます。

江戸時代においては、低い身分から頂点に登りつめた人物の多くは、後ろ盾の将軍が亡くなると失脚を余儀なくされることが多かった。しかし、柳沢吉保や間部詮房でさえ、移封に留まっています。

それに比べて、意次が定信や治済から受けた仕打ちはあまりにも苛烈であり、両者の意次に対する憎悪は異常としか言いようがありません。

では一体なぜ、家治が「知恵は譲りたくない」とまで称えた田沼意次が、家斉政権のもとでその実力を発揮するどころか、完全に消されてしまったのでしょうか。

その理由を解き明かすには、江戸幕府を開いた徳川家康の政治理念にまで遡って考える必要があるのです。

では、[前編]はここまで。[中編]では、家康が構築した江戸幕府の政治思念とその事績についてお話しします。

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