「べらぼう」なぜ田沼意次(渡辺謙)は徹底排除されたのか!?鍵は徳川家康の政治理念だった!【中編】

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「べらぼう」なぜ田沼意次(渡辺謙)は徹底排除されたのか!?鍵は徳川家康の政治理念だった!【中編】

「10代家治は凡庸な将軍だった。しかし、一つだけ良いことをした。それは、田沼主殿頭意次を守ったこと。今日の繁栄があるのはそのおかげだ。」

【大河べらぼう】第19回「鱗(うろこ)の置き土産」で、将軍・徳川家治(眞島秀和)が田沼意次(渡辺謙)に述べた言葉です。

しかし、最終的に家治は、意次を守ることはできませんでした。家治の死後、意次は徹底的に排除されてしまったのです

前編の記事↓

「べらぼう」なぜ田沼意次(渡辺謙)は徹底的に排除された!?理由を江戸幕府の政治理念から考察【前編】

[中編]では、意次排除の基盤となった江戸幕府初代将軍の徳川家康の政治理念と事績についてお話ししましょう。

幕藩体制の精神的支柱に儒教を採用

まずは、江戸幕府を開いた徳川家康の生涯を簡単にお話ししましょう。というのも、家康が歩んできた人生こそが、その後の江戸幕府における政治的思想に大きな影響を与えているからです。

徳川家康(Wikipedia)

家康は1543年、三河の小大名・松平氏の嫡男として岡崎城に生まれました。しかし幼少期には、織田氏や今川氏の人質となり、今川氏の本拠地である駿府で、今川義元の薫陶を受けながら成長します。

1560年、桶狭間の戦いで今川義元が織田信長に討たれると、家康は今川氏から独立。その後、三河を奪還し、名を松平元康から徳川家康と改めました。

1562年には信長と同盟を結び、遠江へ進出。今川氏真を追放することに成功します。しかし、正室・築山殿と嫡男・信康が武田氏と内通したとの嫌疑がかかり、信長の命により、やむなく二人を死に追いやるという苦渋の決断を迫られました。

以降、形式上は同盟関係にありながらも、家康はまるで家臣のように信長に従います。しかし1582年、本能寺の変で信長が死去すると、家康は後継をめぐって羽柴秀吉と対立するも、最終的には秀吉への臣従を余儀なくされます。

豊臣秀吉(Wikipedia)

豊臣政権下では、五大老の筆頭という重責を担っていましたが、1600年の関ヶ原の戦いで勝利を収め、1603年、60歳という高齢で征夷大将軍に任ぜられ、ついに江戸幕府を開いたのです。

このように、50年以上にわたり信長や秀吉のもとで辛酸をなめてきた家康は、江戸幕府の創設にあたり、将軍を頂点として大名たちが各藩を支配する「幕藩体制」を構築しました。

家康にとって、日本の支配は自らの子孫である徳川家が将軍として代々担うべきものであり、そのためには、大名統治のための精神的支柱が必要でした。その役割を果たしたのが儒教だったのです。

商業を利益を貪るだけの卑しい職業と捉える

儒教の基本理念は、「下は上を敬い、上は下を慈しむ」という「」の精神にあります。その一派である朱子学は、家康が定めた厳格な支配体制を全面的に肯定する学問でした。

朱子学の教えは、権力を持つ為政者にとって最良の理論であり、江戸幕府の支配体制である幕藩体制において、徳川家を頂点とする秩序の維持に最適な思想とされたのです。

また朱子学では、商業を農民が生産した物を右から左へと流して利益を貪るだけの卑しい職業と見なし、商人を「利を追い求める卑しい存在」として捉えました。

儒教の教えでは、国の根幹は農業にあり、商業や工業は農業に比べて価値が低いという考え方が根底にあったのです。

徳川家康(Wikipedia)

このような朱子学の影響は江戸時代を通じて確実に浸透し、農業を重んじる「重農主義」こそが優れた為政者のなすべき政治であるとされました。一方で、卑しいとされた商業を重視する「重商主義」を政治の中心に据える為政者は、武士の風上にも置けぬ者と見なされたのです。

儒教、特に朱子学は、江戸幕府の歴代将軍や為政者たちにより、神君と仰がれた家康が導入した「尊い教え」として重んじられました。したがって、この教えに背くことは、少なくとも徳川家に縁ある者にとって、許されるべき行為ではなかったのです。

重農・重商の二つをバランスよく取り入れた家康

さて、読者の皆さんはすでにお気づきでしょう。田沼意次の政治の根本にあったのは、朱子学において卑しいものとされた商業を重視する「重商主義」だったのです。

大河ドラマ「べらぼう」公式サイトより

しかしここで、徳川家康が行った政治的事業を振り返ってみると、「家康は農業ばかりを推奨していたのか?」という疑問が湧いてきます。

家康は江戸に本拠を移すと、「利根川の東遷」「荒川の西遷」と呼ばれる大規模な治水事業を実施しました。これにより水田地帯は洪水から守られ、新田開発も進みました。その結果、元禄時代の耕地面積は、安土桃山時代のおよそ2倍にまで拡大したとされています。

また、土地の生産高を示す方法としては、秀吉に倣い「石高制」を採用しています。ちなみに、それ以前の室町時代には、銭に換算した年貢の収納量によって所領の広さを示す「貫高制」が用いられていました。

この「貫高制」と「石高制」の違いを簡単に説明すると、前者は銭での換算、後者は玄米の収穫量での換算という点にあります。石高制は米の収穫高を基準とするため、年貢の基本は米になります。

したがって、江戸時代においては米の生産量を増やすことが非常に重要視されました。つまり、これが「重農主義」なのです。

ところが、一方で家康は、朱印船貿易や鉱山開発といった、まさに「重商主義」といえる政策を積極的に推し進めました。これら二つの事業は、後の江戸幕府を支える重要な財源として、大きな役割を果たすことになります。

つまり、家康は石高制を採用し、米を中心とする「重農主義」を基本に据えつつも、「重商主義」的な施策もバランスよく展開していたといえます。

朱印船貿易や鉱山開発に取り組んだのは、貨幣経済の進展をしっかりと理解していた証でしょう。そのあらわれとして、家康は金・銀・銭の三貨からなる貨幣制度(三貨制度)を創設しています。

家康の意に反して極端な儒教主義に走る

家康の政治理念と体制をまとめると、幕藩体制の維持にあたっては儒学を精神的支柱として導入しつつも、農業と商業のそれぞれの利点を理解し、バランスよく政策を行うことで、260年にわたる江戸時代の礎を築くことに成功したのです。

しかし、儒学者が政治顧問として幕府に加わったこともあり、その後の為政者たちは、儒学の影響からことさらに商業を卑下するようになります。その結果、膨張する貨幣経済に対応できず、幕府は次第に経済的に行き詰まっていくことになるのです。

大河ドラマ「べらぼう」公式サイトより

そのような中、「重農主義」の限界を察知し、「重商主義」へと大きく舵を切ったのが田沼意次です。

しかし、彼はその出自の低さも影響し、[前編]で紹介したオランダ商館長イサーク・ティチングの言葉にあるように、「井の中の蛙」のような幕府首脳陣の中で孤立を深め、ついには松平定信(寺田心)、一橋治済(生田斗真)らの憎悪の対象となってしまいました。

では、[中編]はここまでとします。[後編]では、田沼意次と松平定信の政治理念の違いを、彼らが模範とした8代将軍徳川吉宗の政治を交えて考察し、意次がいかにして完全に排除されていったのかをお話ししましょう。

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