朝ドラ「あんぱん」嵩の弟・柳井千尋(中沢元紀)のモデルである柳瀬千尋の、駆逐艦・呉竹での最期

朝ドラ『あんぱん』には、柳井嵩(やなせたかしがモデル)と浅田のぶ(池田愓がモデル)をはじめ、多くの魅力的な人物が登場します。
そのなかで、幼少期から嵩と共に育ったのが、彼の弟である柳井千尋(柳瀬千尋がモデル)でした。

ドラマ中の千尋は、文武両道で眉目秀麗な好青年として描かれています。実際の柳瀬千尋も成績優秀な人物で知られ、将来を嘱望されていました。
しかし戦争の荒波が迫ると、千尋は予備役に登録。20代で駆逐艦に乗り込んで戦争に身を投じていきます。
柳瀬千尋の一生は、兄やなせたかしにどういう影響を与えたのでしょうか。それでは一緒に彼の人生を見ていきましょう。
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このとき、ドラマと同様に、やなせたかしは成績優秀な弟への劣等感を兄は後年回想していました。
千尋は県立城東中学から高知高等学校へ進学。昭和18(1943)年には、千尋は京都帝国大学法学部を卒業しました。
地域医療を営む養家を継ぐ期待と、自らの進路模索が交錯するなか、時代は急速に総力戦へ傾きます。
千尋は卒業と同時に海軍予備員に採用。同年10月1日付で少尉任官されます。その後、半年間の速成教育ののち、対潜水艦探知装置を扱う分隊士となりました。
同僚証言によれば「几帳面で冗談の少ない秀才肌」だったといい、艦内日誌にも細かな装備整備の指示が残ります。

やなせ氏は『アンパンマンの遺書』で「弟は海軍特攻隊に志願した」と記しています。しかしこれは、千尋が任務内容を曖昧にしか語らなかったため生じた誤認でした。近年、国立公文書館の履歴原本が公開され、特攻兵科への転科記録がないことが確認されています。
バシー海峡での最期やがて千尋に運命を一変させる瞬間が訪れます。
昭和19(1944)年12月下旬、乗船していた呉竹がマニラ脱出船団護衛のため台湾バシー海峡へ向かいました。
同月30日、米潜水艦「レザーバック」の雷撃三発が呉竹に命中。艦はわずか数分で沈没しました。乗員約220名のうち71名が戦死、千尋もその一人でした。
翌昭和21(1945)年春、柳瀬家に木札が一枚入った骨壷が届きます。木札には「海軍中尉 柳瀬千尋」とありました。
この「空の骨壷」は、兄を終生苛む象徴となり、やなせ氏は「名前のように千尋の深海に沈んだ」と書き残します。
やなせ氏はフィリピン戦線から帰還後、弟の死を知り「他者を救うには自己犠牲が要る」と痛感したと語ります。アンパンマンが自らの顔を分け与える場面は、千尋の「見えない献身」への鎮魂でもあったのかもしれません。
晩年のエッセイでやなせ氏は「絶望の隣に希望がある」と繰り返します。それは、戦場で砕けた弟の未完の未来を、創作で生かし続ける決意の言葉でした。

一部記事では「千尋=回天隊員」とする記述が散見されますが、史料的裏付けは皆無です。戦後早期の回想が混線したまま流布したのが原因で、近年の研究で否定されました。
呉竹乗員71柱を祀る慰霊碑は大分県佐伯市と高知市に建立され、海自OBらが毎年献花を続けています。
朝ドラ放送を契機に参拝者が増え、「柳瀬千尋」の刻名に手を合わせる若者も目立ちます。
柳瀬千尋が残したのは、戦果でも勲章でもなく、兄・嵩の胸に灯った「哀しみから生まれるやさしさ」でした。彼の23年という短い人生が、いま私たちの子どもたちに届くヒーロー像を支えているのかも知れません。

千尋の存在は、やなせたかしの中に息づいた。その思いがアンパンマンへと受け継がれ、国を超えた。
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