【新選組】遺体は海中投棄…宮古湾海戦、敵に果敢に斬り込み壮絶な最期を遂げた「野村利三郎」の生涯

時は明治2年(1869年)3月25日、旧幕府軍と新政府軍が宮古湾(岩手県宮古市沖)で武力衝突しました。
後世に伝わる宮古湾海戦で討ち死にした中には、かつて新選組隊士として活躍した者も名を連ねています。
今回はそんな一人である野村利三郎(のむら りさぶろう)を紹介。果たして彼はどんな人物だったのでしょうか。
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新政府軍を相手に勇戦する甲陽鎮撫隊(新選組)。大蘇芳年「勝沼駅近藤勇驍勇之図」
野村利三郎は弘化元年(1844年)、美濃国大垣藩士の家に生まれたと伝わります(諸説あり)。
本姓は源、諱(忌名)は義時。同僚と口論のすえ決闘に及び、脱藩しました。
各地を放浪した利三郎は新選組に転がり込みますが、具体的な動機については詳しく分かっていません。
利三郎の入隊は慶応3(1867)年6月以降、局長附の中にその名が見られ、局長の近藤勇(変名:大久保大和)から信頼されていました。
慶応4年(1868年)4月、下総国流山(千葉県流山市)へたどり着いた新選組が新政府軍に降伏する際には、近藤の供を務めています。
二人は捕縛され、4月25日に近藤が斬首されてしまいました。
利三郎と、別に捕らわれていた相馬主計(そうま かずえ)も続いて処刑される予定でしたが、近藤の助命嘆願によって釈放されます。
釈放から壮絶な最期まで
釈放された野村利三郎は相馬主計と共に旧幕府軍へ合流し、陸軍隊長•春日左衛門(かすが さゑもん)の指揮下に入りました。
奥羽越列藩同盟(おううえつ•れっぱんどうめい。東北及び北陸諸藩)と共に各地を転戦し、仙台で新選組の副長であった土方歳三(ひじかた としぞう)らと再会します。
そして榎本武揚(えのもと たけあき)の艦隊に合流し、蝦夷地箱館(北海道函館市)へ渡りました。
蝦夷地へ渡航後、利三郎は新選組には復帰せず、陸軍隊の中堅を担い続けます。
しかし隊長の春日とは反りが合わなかったようで、命令違反などトラブルを起こしていました。
蝦夷共和国の成立後は陸軍奉行添役に就任。これは陸軍奉行の土方を補佐する役で、やはり古巣の方がやりやすかったのかも知れませんね。
そして明治2年(1869年)3月25日、宮古湾海戦においては乗り組んだ回天丸から、敵の主力艦である甲鉄へ果敢に斬り込みました。
しかし武運つたなく討ち死にし、その遺体は宮古湾に投棄されてしまいます。享年26歳。
終わりに
今回は新選組の末期に入隊し、宮古湾海戦で壮絶な最期を遂げた野村利三郎について、その生涯をたどってきました。
その死は多くの仲間たちから惜しまれ、函館称名寺の新選組供養碑には、その名が刻まれています。
※参考文献:
菊地明ら編『戊辰戦争全史 下』新人物往来社、1998年4月 『新選組468隊士大名鑑 完全版』小池書院、2007年11月日本の文化と「今」をつなぐ - Japaaan