暴れん坊将軍の実像と虚像。八代将軍・徳川吉宗のリアリストとしての実態に迫る!
開明的な名君
テレビドラマ『暴れん坊将軍』のモデルとして名高い、名君として知られる八代将軍・徳川吉宗。
彼が異例の大出世を遂げたことは有名ですが、その人生を彩るエピソードには後世に作られた伝説も多くあります。彼の実像と業績の実態を見ていきましょう。
徳川吉宗は、江戸三大改革のひとつ享保の改革を推しめ、自然災害や飢饉が相次ぐ苦難の中で財政再建に尽力しました。
※関連記事↓
「暴れん坊将軍」こと8代将軍・徳川吉宗は本当に名君だったのか?〜 享保の改革の光と影新田開発を積極的に進めたことから「米将軍」の異名を持ち、サツマイモの栽培も奨励したことで知られています。
さらに彼は漢訳された洋書の輸入制限を緩和し、西洋の学問に目を向けるなど開明的明君として知られています。
このような旧例にとらわれない政治は、御三家の紀州藩主から異例の大出世を遂げた経歴と無縁ではありません。
ただ、紀州藩時代の吉宗については後世に作られた伝説が多いようです。近年、地元の和歌山県に残る一次史料を通じ、より正確な吉宗像に迫る研究が進んでいます。
数々のエピソード吉宗に関する有名なエピソードに、五代将軍・綱吉との出会いがあります。綱吉が紀州藩邸を訪れた際、藩主の四男の吉宗のみ別室に留め置かれ、老中の助言で謁見が実現したというものです。
このエピソードは、元紀州藩家臣が後年に編集した『南紀徳川史』に記されています。
しかし現在、この記述は誤りとされています。当時の家老の日記から、綱吉は兄と平等に将軍に謁見したことが分かるのです。
この誤った記述は、家を継ぐ資格のない「部屋住み」時代の吉宗の不遇を強調し、後の出世物語を強調する意図があったと考えられます。
また、和歌山城下で警察業務に従事していた牢番頭の日記にも興味深い記述がみられます。
吉宗の父の危篤の際、江戸にいた兄は和歌山に急行したのですが、現在の滋賀から和歌山までの5日かかる距離を2日で移動したというのです。
この無理な行動が健康を害したとみられ、兄は急死し、吉宗が紀州藩主に就任することになりました。
その後、7代将軍・家継が死去し、吉宗が将軍に抜擢される前にも、御三家の筆頭だった尾張藩の藩主・吉通が25歳で亡くなっています。
吉宗の出世の裏では、兄弟や政敵の死が相次いでいました。紀州藩が隠密を使った情報収集に長け、尾張藩より有利に立てたことなどから、荒唐無稽な「陰謀説」も囁かれています。
復古と革新吉宗は、幕政のスローガンに「諸事権現様(徳川家康)お定めの通り」と掲げました。家康が好んだ鷹狩を将軍の権威の確立のため復活させるなど、復古主義的な面がみられます。
その一方で吉宗には、近代政治のパイオニアとしての側面もあります。彼は国家権力をもって合理化した政治を行いました。
その代表例が享保の改革で、彼は全国的な人口統計調査や官僚機構・法制度の整備を通じ、幕府が積極的に経済活動に関与する「大きな政府」を実現しています。
また、社会的弱者の救済にも力を入れています。目安箱を置いて庶民の直接の訴えを聞きつつ、貧民の救済施設である小石川養生所を作ったのも彼の業績です。
その背景には、紀州藩時代の経験がありました。
1707年、マグニチュード8.6とされる「宝永地震」が起き、紀州藩の沿岸部を津波が襲ったのです。
この時の死者は700人近くに上り、当時紀州藩主だった吉宗は藩の復興の陣頭指揮を執り、天災の被災者「弱人」を慈しんで救済していました。
5年後には「岡山の時鐘堂」(和歌山市)を設置しており、出火などの非常事態を知らせる防災行政無線の役割を果たしたとみられています。
そんなこともあって、将軍になってからも江戸市中に町火消を作っており、危機管理の先駆けと言えるでしょう。
テレビドラマ『暴れん坊将軍』でみられるような、市井の声に耳を傾ける姿勢も紀州藩時代にその萌芽があったということです。
吉宗のリアリストとしての姿は、紀州の自然と社会によって培われたのです。
参考資料:中央公論新社『歴史と人物20-再発見!日本史最新研究が明かす「意外な真実」』宝島社(2024/10/7)
画像:photoAC,Wikipedia
日本の文化と「今」をつなぐ - Japaaan
