なぜ太平の世・江戸時代に“鉄砲バブル”が巻き起こった!?江戸後期の武器ビジネスの実態【前編】

Japaaan

なぜ太平の世・江戸時代に“鉄砲バブル”が巻き起こった!?江戸後期の武器ビジネスの実態【前編】

鉄砲産業の始まりと衰退

1543年に日本に伝来した鉄砲は、日本人の技術力をもって国産化に成功し、戦国時代の主力兵器として広まっていきました。

江戸時代の火縄銃(Wikipediaより)

その後、江戸時代になって太平の世を迎えると鉄砲産業は衰退していきます。

このあたりの流れは想像できると思いますが、実は18世紀半ばになると、鉄砲の取り引きが再び活発化していきました。

一体何があったのでしょうか? 今回はその理由と鉄砲ビジネスの実態について前編・後編で解説します。

新史料の発見

1543年、戦国時代に鹿児島県の種子島に伝来した「鉄砲」は、それまで刀や槍に頼っていた戦の在り方を大きく変えることになりました。

鉄砲の持つその威力に恐れを抱いた戦国大名は、こぞって入手に努めます。

しかしその後、天下統一が進んで「太平の世」とされる江戸時代が訪れると、国内の鉄砲産業は縮小の一途をたどった――。今まではそう考えられてきました。

実際、素人考えでも、常識的に考えればそう思うはずです。太平の世になって激しい戦が行われなくなれば、武器のニーズは低くなるに違いありません。

火を噴く火縄銃

さてしかし、大阪・堺は、滋賀・国友と並ぶ日本最大級の鉄砲生産地だったとされますが、ここで2014年、現存最古の鉄砲鍛冶屋敷である「井上関右衛門家住宅」で、約2万点の古文書が見つかりました。

それは18世紀後半以降の鉄砲の取引先や注文内容、原材料などが分かる類例のない文書群でした。

これを堺市と関西大が協力して分析・調査したところ、浮かび上がってきたのは、意外にも江戸後期に成長していた「鉄砲ビジネス」の実態だったのです。

新規発注が増加

もともと、堺の鉄砲についての史料は多くありませんでした。

江戸前期から中期については、辛うじて堺全体の鉄砲受注数の減少を示す史料だけが存在しており、これによって江戸時代に鉄砲ビジネスは衰退したと考えられていました。

その受注数を見ると1653年が2,383丁で、これが40年後の93年には318丁に激減。さらに18世紀前半には新規の注文よりも「修理」が中心となり、取扱数は100丁前後で推移していました。

しかし、前述の井上家で見つかった1752年以降の受注記録は、別の様相を呈していました。

当初は同家だけ50丁前後だったのですが、1824年には104、1839年には284丁に増加していたのです。しかも大半を占めるのが新調の注文でした。

取引していた武家の数は1758年の19件から、1842年には61件と3倍以上に拡大。8代目・井上関右衛門はこの時期について「鉄砲師の全盛の時代」とも述懐しています。

なぜこのような変化が起きたのでしょうか。その理由は、ロシアの南下で海防の意識が高まり、生産量が増加したためと考えられています。

【後編】では、こうした調査研究の内容についてさらに詳しく解説します。

参考資料:
中央公論新社『歴史と人物20-再発見!日本史最新研究が明かす「意外な真実」』宝島社(2024/10/7)
画像:photoAC,Wikipedia

日本の文化と「今」をつなぐ - Japaaan

「なぜ太平の世・江戸時代に“鉄砲バブル”が巻き起こった!?江戸後期の武器ビジネスの実態【前編】」のページです。デイリーニュースオンラインは、鉄砲幕末江戸時代カルチャーなどの最新ニュースを毎日配信しています。
ページの先頭へ戻る