豊臣秀吉の幻の城「京都新城」は実在した!京都御苑に眠る”最後の城”はなぜ築城・破却された?
実在した「幻の城」
豊臣秀吉は、生涯を城郭の建設に費やした人でした。その実績は、大坂城(大阪市)、聚楽第(京都市)、名護屋城(佐賀県唐津市)などが知られています。
そんな秀吉の建設した城は、これまでは伏見城(京都市)で最後とされていました。
この常識を覆したのが幻の城「京都新城」の発見です。令和二年(二〇二〇)、京都御苑(御所周囲の公園)の仙洞御所敷地から石垣と堀が出土したのです。
京都新城は秀吉が、その死の前年に当たる慶長二年(一五九七)に築いたもの。当時五歳だった嫡子・秀頼のための城郭・居館・政庁でした。
わずかな資料に「太閤御屋敷」「京の城」などと記されてはいましたが、これまでは知られざる存在だったのです。
破却されたのは江戸時代で、その跡地に仙洞御所が築かれたわけですが、令和の世になるまで新城の跡はまったく見つかっていませんでした。
また工期が約半年という短期間だったため、単なる屋敷とする見方が大勢で、聚楽第のような石垣・堀などを備える城郭とは考えられていなかったのです。
伏見城と並ぶ拠点そこへきて、このたび発見された遺構は、南北八・五メートルの石垣、約一一メートル幅の堀、そして豊臣氏の城でおなじみの金箔瓦などです。
ここに東西約四〇〇メートル、南北約八五〇メートルという、聚楽第(東西約六〇〇×南北約七〇〇メートル)に匹敵する京都新城の存在が裏付けられたのでした。
縄張(設計)は聚楽第や大坂城と同じく、内城を外城が「回」の字型に囲む輪郭式城郭だった可能性が高いとみられています。
京都新城は慶長二年一月に現在の中京区で着工されましたが、四月に御所東南そばに場所を変更し、九月に完成しました。
この年は朝鮮出兵(慶長の役)を始めた年でもあり、秀次事件と聚楽第破壊はこの二年前にあたります。
明征服を目指した文禄の役から、慶長の役では朝鮮南部の制圧に目的が変更されましたが、六十一歳の秀吉はまだ意気軒昂でした。
後継者の秀頼邸である新城は、天皇・朝廷とのさらなる一体化を指向した城郭とみられます。またポスト聚楽第として、大坂・伏見城と並ぶ拠点でもありました。
この翌年に秀吉は病死しますが、遺言で秀頼に大坂入城を命じています。死を悟った秀吉は諸大名に忠誠をくどく誓わせており、豊臣家の将来を不安視していたことは間違いないでしょう。
北政所の思惑当時、大坂城は同時並行で三の丸普請が進められ、防御機能が飛躍的に高まっていました。幼い秀頼は新城でなく、鉄壁の要塞で守りたかったのだと推察されます。
代わって新城の主となったのは正妻の北政所(高台院)でした。北政所は豊臣政権で高い政治力を持ち、朝廷外交でも重きを成す存在でした。
慶長五年の関ヶ原の戦いで北政所は徳川家康を支持し、甥の小早川秀秋の裏切りに関与したともいわれています。
注目されるのは西軍挙兵後、北政所が京都新城の石垣や櫓を破却したことでしょう。
新城は徳川方にとって脅威だったので、北政所は豊臣家が西軍に与していないことをアピールしたかったのかも知れません。
北政所は寛永元年(一六二四)、「高台院屋敷」で亡くなっています。これは京の高台寺でなく、既に城郭でなくなった京都新城を指すことも近年明らかになっています。
参考資料:
中央公論新社『歴史と人物20-再発見!日本史最新研究が明かす「意外な真実」』宝島社(2024/10/7)
画像:photoAC,Wikipedia
日本の文化と「今」をつなぐ - Japaaan