「千々石ミゲル」は本当に”背教者”だったのか?墓の発掘調査で明らかになったキリシタン信仰の実態!

「背教者」千々石ミゲル
キリスト教は16世紀後半に日本全国に広がりましたが、徳川幕府は禁教令を発布し、苛烈な弾圧を実行しています。
そんな中、ローマ教皇に謁見までした千々石ミゲルは長らく「背教者」とされてきましたが、最近はその見方も覆りつつあります。その信仰の実態について見ていきましょう。
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1549年に日本に伝わったキリスト教は、1587年の豊臣秀吉の伴天連追放令から規制が始まり、徳川幕府が1612年に発した禁教令によって信仰そのものが禁じられました。
世俗の権力よりも信仰や教義を優先し、信徒は反乱や侵略の先兵となる危険性もはらんでいたことから、神仏の国・日本における「邪教」と位置づけられたのです。
当時30万人以上いたとされるキリスト教徒は、棄教するか、仏教徒を装いひそかに信仰を維持する「潜伏キリシタン」となるかを強いられました。
禁教期の潜伏キリシタン関連遺構はあまり残っていませんが、近年、信仰の実態に迫る発見がありましたた。
天正遣欧使節の一員で、帰国後に棄教したとされてきた千々石ミゲルと、その妻が埋葬されたとみられる遺構から信仰具の一部が見つかったのです。
それによって、彼らが信仰を守り続けていた可能性が強まりました。
発掘調査で分かったこと千々石ミゲルは日本初のキリシタン大名である大村純忠の甥にあたり、1580年代に伊東マンショらとヨーロッパに渡り、ローマ教皇に謁見しました。
彼は日本の存在を西洋に知らしめた功労者ですが、1601~1603年頃、なぜかイエズス会を脱会し、清左衛門と改名して大村家に仕えています。
ほかの使節3人は生涯信仰を守ったのに対し、ミゲルは「背教者」として歴史に名を残すことになりました。

晩年の消息は不明でしたが、ミゲルの四男・玄蕃の墓と伝わる長崎県諫早市伊木力地区の墓石を調べたところ、玄蕃は建立者で、男女の戒名と寛永9年12月12日と同14日(1633年1月21日、2日)の没年月日が刻まれていたことが確認されました。
その後、ミゲルの子孫からなる民間チームが周辺の発掘調査を行っています。
その結果、膝を曲げて横たわる成人男女各1体の遺骨が見つかったほか、女性の墓穴でガラス玉58点、板ガラス1点などキリスト教の信仰具の一部が出土しました。
また男性の墓穴では、棺などに打ったとみられる約100本のくぎを確認。墓石に書かれた文字と発掘調査の状況に食い違いはなく、被葬者は玄蕃の両親であるミゲル夫妻だと結論づけられたのです。
脱会後も信仰し続けていた脱会後のミゲルの足取りから、彼はイエズス会は抜けても信仰自体は捨てていなかった可能性が高いです。
日本で布教したイエズス会の宣教師アフォンソ・デ・ルセナの回想録などによると、ミゲルは脱会後、キリシタンの大村藩主・大村喜前に仕えました。
しかし喜前が棄教し、取り締まりが強まった1606年頃に逃亡し、島原半島のキリシタン大名・有馬晴信に再仕官しています。
ルセナはミゲルを棄教者と断定しており、「なかなか枯れない雑草」と評しつつも、「釈迦や阿弥陀を崇拝しないから異教徒であるとは思われない」とも記しています。
ただ、ミゲルが移った先はいずれも信仰が浸透したキリシタン王国といえる地でした。そもそも棄教者が向かう場所ではありません。
イエズス会宣教師の中には日本人を蔑視し、日本人奴隷の売買に関わったり、武力制圧を唱えたりする者もいました。こうした排他的・非人道的な内実を見抜いてミゲルが脱会した可能性もあります。
先述の発掘調査が行われた伊木力は大村藩時代のミゲルの旧領地で、イエズス会とは別の修道会の信徒が多くいました。苦難の末に故地にたどり着き、ひそかに信仰を貫いたのなら、ミゲルは最初期の潜伏キリシタンといえるでしょう。
ミゲル=棄教者説が覆ると、イエズス会が都合のいい解釈で記録を残した可能性も考えられます。ミゲルの人物像のみならず、当時の史料も再検証が求められるかも知れません。
参考資料:
中央公論新社『歴史と人物20-再発見!日本史最新研究が明かす「意外な真実」』宝島社(2024/10/7)
画像:photoAC,Wikipedia
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