「べらぼう」なぜ蔦屋重三郎は江戸・日本橋への進出に憧れたのか?魚河岸が作った経済インフラの全貌

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「べらぼう」なぜ蔦屋重三郎は江戸・日本橋への進出に憧れたのか?魚河岸が作った経済インフラの全貌

大河ドラマ『べらぼう~蔦重栄華乃夢噺~』25話で念願の「日本橋」に進出を果たした蔦屋重三郎(横浜流星)。

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吉原の書店として数々のヒットを連発した耕書堂をして、なお憧れの存在であった日本橋とはいかなる場所であったのか、その繁栄の礎であった魚河岸に焦点をあて、ご紹介しましょう。

蔦重が進出した日本橋大伝馬町。歌川広重筆(国立国会図書館デジタルコレクション)

江戸湾からの水路と五街道の起点となる

1590(天正18)年、豊臣秀吉は関東の雄・北条氏を滅ぼし、ついに天下統一を果たしました。天下人となった秀吉は、徳川家康に対し、本領である三河・遠江・駿河・甲斐・信濃から、伊豆・相模・武蔵・上野・上総・下総といった旧北条領への国替えを命じます。

豊臣秀吉像(狩野光信画)Wikipedia

家康にとって、先祖伝来の地・三河を手放すことは痛恨の極みであったに違いありません。しかし、この国替えは従来の約130万石から約250万石への大幅な加増でもありました。家康に無理難題ともいえる転封を強いる一方で、それを補って余りある恩賞を与える――このあたりに、秀吉の策士としての巧妙さがうかがえます。

徳川家康・東照大権現像(狩野探幽画)Wikipedia

ともあれ、江戸に入った徳川家康は、新たな居城となる江戸城の拡張・整備とともに、大規模な都市建設に着手しました。そして1603年(慶長8年)に江戸幕府を開くと、全国の大名を総動員して、江戸の町は“将軍のお膝元”にふさわしい都市へと整えられていきました。

さて、江戸幕府による急ピッチな都市開発には、多くの労働者と大量の物資を運ぶ手段が必要となります。そこで幕府は、江戸と地方を結ぶ街道の整備を進めるとともに、町中に水路を張り巡らせました。

その両方の要所とされたのが、早くから町人地として開発された日本橋でした。ここに、江戸城の外堀と隅田川の河口を結ぶ水路――日本橋川に橋が架けられます。つまり海と通じる水路を整備し、全国からの物資が船で江戸市中に入ってくるようにしたのです。これが、日本橋の始まりです。

現代の日本橋 Wikipedia

海に面した商業地にはいくつもの運河や河岸が設けられ、なかでも日本橋川・京橋川・三十間堀・八丁堀の河岸は「水運の大動脈」といわれる要路となりました。

また日本橋は、江戸と地方を結ぶ五街道――東海道・中山道・日光街道・奥州街道・甲州街道――のすべての起点とされました。

物流の拠点となった日本橋には、魚市場として発展した魚河岸や米河岸なども設置されます。さらに、都市建設に必要な木材をはじめ、さまざまな物資がこの地に集中し、江戸市中の各所へと運ばれていきました。

日本橋を描いた浮世絵 Wikipedia

このようなインフラの整備により、日本橋は大いに賑わいます。通りの両側には「三井越後屋呉服店(のちの三越)」や「白木屋(のちの東急百貨店)」のような大型商店をはじめ、堂々とした構えの店が次々と軒を連ね、日本経済の中心として発展していきました。

まさに、日本橋は江戸で最も賑わい、活気にあふれた町だったのです。

魚河岸とともに江戸一番の繁華街に発展

家康が将軍に任じられ、都市改造を開始した当時、江戸の人口はおよそ15万人ほどでした。それから約30年後の1632年(寛永9年)には、人口は倍増し、少なくとも30万人を超える人々が暮らしていたと考えられています。

大河ドラマ『べらぼう』の主人公・蔦屋重三郎の時代は、それから約150年後になりますが、その頃には江戸の総人口は優に120万人を超えていたのです。

整備・拡張なった江戸城とその市中

このように、江戸は時代が下るにつれて人口が増加し続けました。それに伴い、江戸市民の生活を支える物資の供給が必要となります。日本橋は、そうした物資のうち、特に魚介類を供給する魚河岸の街として、なくてはならない存在となっていったのです。

当時の人々の間では、獣肉を食べることを忌避する考えが広く浸透していました。そのため、魚介類は江戸市民にとって貴重なタンパク源だったのです。江戸幕府にとっても、その需要を満たすために魚の流通システムを整備することは、必要不可欠な課題でした。

ちなみに家康は江戸に入ると摂津から漁民を招き、佃島に移住させました。彼らは幕府の膳所(台所)に魚介類を供するために漁業を営みます。

石川島と佃島。葛飾北斎筆

日本橋の魚河岸は当初、佃島の漁民たちが獲った魚を幕府に納めるために設置されました。その後、幕府に上納する残りの鮮魚を、舟板の上に並べて一般に販売するようになります。これが、日本橋魚市場のはじまりです。

日本橋魚河岸発祥の地 Wikipedia

そして次第に、江戸湾の漁師たちが“押送り船”という高速の小舟で魚を運び込むようになり、日本橋の魚河岸が形成されていったのです。この小船は左右に4本ずつの櫓が付く、8人で漕ぐ運搬船で、冷凍冷蔵技術がなかった江戸時代において、鮮度の良い魚を運ぶための高速船でした。

日本橋 雪之曙。渓斎英泉筆

18世紀以降の江戸には日本橋以外にも5組の魚問屋仲間がありました。しかし、生鮮魚と塩干魚の両方を取り扱ったのは日本橋の魚問屋だけで、江戸時代を通じて常に優越的立場を持つ最大の市場であったのです。

京都で発行された『江戸名所記』という実用的な江戸ガイドブックには、日本橋の混雑ぶりを次のように記しています。

「橋の下には魚舟などが数百艘も集まって、日ごとに市が立っている。~(中略)~朝から夕方まで橋の両側は一面にふさがり、押し合い揉み合い急きあって、立ち止まる事も出来ない。~(中略)~橋の下からは市の声、橋の上からは人の声、話の中身も聞き取れず、ただ、がやがやと、聞こえるばかりである。」

この江戸の名所記は、日本橋ができてからまだ半世紀しか経っていない寛文2(1662)年に出版されていますので、当初から日本橋がどれほど繁盛していたかが想像できるでしょう。

魚河岸を起点に江戸の諸方へ運ばれた魚介類

江戸湾から日本橋川を上り、日本橋河岸に横付けされた押送り船から降ろされた魚介は、すぐに問屋の店先に並びます。そして、問屋から仲買に卸され、彼らは板舟と呼ばれる簡便な店舗で魚の販売を行いました。

その仲買から魚介を購入したのが、時代劇に登場する“一心太助”のような「振売り」と呼ばれる商人たちでした。

江戸市中に魚を行商した棒振り Wikipedia

江戸の食品流通の最末端に位置していた彼らは、両端に魚を入れた桶を吊るした天秤棒を振りかつぐスタイルで、早朝に魚河岸で仕入れた魚を江戸の町を歩きまわりながら行商を行ったのです。

この他、料理屋は日本橋魚河岸から直接魚介を仕入れていたようです。江戸における料理屋の出現には、その形態からさまざまな説があるようですが、1700年代になると煮物を肴に酒が飲める居酒屋が現れます。

蔦屋重三郎の頃には今でいうコース料理を出す高級料理店を始め、6,000軒を超える料理店が存在したといわれています。彼らにとっても、日本橋魚河岸はなくてはならないものであったのでしょう。

そして江戸城内で使われる魚は“魚納屋役所”の役人が魚河岸から買い付け、「御用肴」の札を掲げた荷車に積んで、鮮度の落ちないよう猛スピードで江戸城に向かったのです。

日本橋魚市繁栄図。歌川国安筆

江戸の町には1日に千両のお金が動く場所が3か所あったとされています。「一日に千両の落ちどころ」と称された場所は、芝居町と吉原、そして日本橋の魚河岸であったのです。

このように日本橋は、日本経済を動かすほどの繁華街でした。さらなる耕書堂の繁栄を期す蔦屋重三郎にとって、この町への進出は、ぜひとも成し遂げなければならないことだったのです。

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