【新選組】のお引越し!幕末、何度も引越していた新選組の知られざる屯所移転の理由と歴史
「壬生の狼」の異名をとり、京都守護のために剣を振るい続けた剣客集団 新選組。活動期間は約6年という僅かな年数だが、幕末史の中にあって根強い人気を誇る。
誠一文字を染め抜いた旗を高々と掲げ、浅黄色のだんだらを羽織り駆け抜けた京都に彼らは屯所(とんしょ)を構えたが、3回ほど移転をしている。
※関連記事:
幕末の志士たちを震え上がらせた新選組!10人の組長たちの終焉を紹介【前編】 幕末を生き残り明治時代の世をたくましく生きた新選組の元隊士たち 芹沢鴨の暗殺、山南敬助の切腹があった壬生の屯所
京都市内中京区に現存する壬生屯所旧跡 八木家(京都市指定有形文化財)
新選組が京都守護職の会津藩松平容保の預かりとなり、前身の壬生浪士組として京都で活動を開始したのが文久3年(1863)の3月。当時屯所としたのが京都守護職と深い関わりのあった八木家の屋敷 八木邸であった。
しかし、隊士の人数が次第に増えていくと手狭になっていき、近所の前川邸や南部邸に分宿した。新選組の異名である「壬生の狼」とは、彼らがこの地に屯所を構えていたことに由来している。
この壬生では、八木邸で局長の芹沢鴨が近藤勇ら試衛館組に暗殺され、前川邸では総長の山南敬助が切腹、池田屋事件の発端となった古高俊太郎の拷問が行われた。
京都市内中京区に現存する新選組屯所・旧前川邸(内部は非公開)
八木邸と前川邸は現存しており、八木邸は内部公開がされている。新選組が寝泊まりしていた当時から変わらない屋敷には、芹沢鴨暗殺の夜についた刀傷や芹沢が躓いた机などが残されており、まるで幕末から時が止まったような感覚に陥る。
大砲を撃ち鳴らし、養豚まで行った西本願寺屯所
姫路市の亀山本徳寺に移築された北集会所(Wikipediaより)
新選組は壬生を約2年間屯所としたが絶頂期に入り、隊士募集を行うと更に手狭になり、元治2年(1865)の春に西本願寺へ移転した。移転先が西本願寺となったのは、勤王派を援助していた同寺を内部から監視するためだったとされている。
新選組が屯所として利用していたのは、境内の北集会所と太鼓楼。北集会所は300畳もの広さがあったため、小部屋をたくさん造ったほか、本堂との間に竹矢来を組んで牢屋や処刑場まで建てた。
西本願寺に現存する太鼓楼
さらには、砲術訓練で大砲をぶっ放したり、医師の松本良順に豚肉や鶏肉を食べることを勧められたことから、豚まで飼い始めたりとやりたい放題。
結局、西本願寺側から境内からの立ち退きを条件に屯所の新築費が支払われ、2年で移転し(追い出され)た。
北集会所は明治6年(1873)に姫路市の亀山本徳寺に移築されたが、隊士がつけたとされる刀傷など建物自体はそのままに残されている。
最大規模の広さを誇った幻の不動堂村屯所
京都市下京区にある不動堂村屯所跡を示す石碑
西本願寺から支払われた費用で不動堂村に新しく建てたのが、最後の屯所だった。広大な敷地内には正門・大広間・客間・幹部と平隊士の部屋・厩、剣道場・一度に30人ほどが入れるような大風呂・台所などが設けられ、まるで大名屋敷のようだったという。
この屯所の正確な場所は特定されておらず、不動堂村屯所を示す場所が現在複数ある。それ故にこの屯所は「幻の屯所」と言われている。
しかし、この屯所に移転した半年後の慶応3年(1867)12月に新選組は京の都を離れ、伏見奉へ移動。そして戊辰戦争の初戦となる鳥羽伏見の戦いが勃発する。
今日では漫画やゲームなど様々なコンテンツに登場する新選組は、それだけにどこか別次元の存在のようにも思えてしまう。
しかし、彼らが暮らしたかつて屯所だった地に足を運んでみると、ほんの150年とちょっと前に彼らは確かにそこにいたのだと実感することができる。
日本の文化と「今」をつなぐ - Japaaan

