お盛んだった家康も利用?江戸〜昭和時代まで続いた色街「二丁町遊郭(駿府遊郭)」の栄華と消滅の理由
遊郭と言えば江戸の吉原、長崎の丸山などが有名ですが、他にも日本各地で遊郭が栄えていました。
今回はそんな一つ・駿府の二丁町遊郭(にちょうまちゆうかく)を紹介。その歴史をたどってみましょう。
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時は慶長12年(1607年)、隠居した徳川家康が駿府に移住すると、それまで一万数千人程度だった人口が十万人規模に膨れ上がりました。
やはり「大御所様のお膝元」を慕う者は少なくなかったようです。
街が急拡大するには人の住む家をはじめ各種インフラを整備しなければなりません。
となれば仕事を求めて職人が集まり、自然と男女比の偏りが顕著になります。
駿府各所で遊女はもちろん、飯盛女(めしもりおんな)や湯女(ゆな)に至るまで、女性と見れば目の色変えて奪い合う始末。
挙句の果てには文字通りの奪い合い(暴力沙汰)も頻発し、駿府の治安はたちまち悪化してしまいました。
このままでは静かに老後を過ごせない……と思ったかどうか、事態を憂慮した家康は駿府から遊女たちの追放を命じたのです。
そこへやって来たのが伊部勘右衛門(いべ かんゑもん)。徳川家の鷹匠頭であり、また家康に鷹狩を指南する立場でした。
勘右衛門は家康に対して、遊郭の設置許可を求めます。
「遊女たちをきちんと管理すれば、奪い合いは起こりません。遊女たちは安心して勤められ、街の女性たちも安心して暮らせるでしょう」
とか何とか。家康がその理屈に納得したのか、あるいは師匠に頭が上がらなかったのでしょうか。
ともあれ許可を得た勘右衛門は、駿府郊外の安倍川沿い、禁教前に耶蘇寺があった土地二丁四方(約一万坪)の土地を購入します。
ここに遊郭を開設し、自身も妓楼「伏見屋」を出店しました。これが二丁町遊郭の始まりと言われています。
老いてなお盛んだった家康もお忍びで利用した……記録はないものの、彼ならやりかねませんね。
約300年にわたって営業するも、空襲で焼失
歌川広重筆「五十三次名所図会 府中 安部河みろく 二丁町」拡大
遊郭の開設当時、駿府城下には96の町がありました。
うち7町が遊郭で、やがて江戸に吉原遊廓ができると5町がそちらへ移転していきます。
残った遊郭は2町。これが二丁町遊郭という呼び名の由来になったとか。
また一説には、最初に購入した用地が二丁四方だったから、とも言われるそうです。
そんな二丁町遊郭は駿河国内でも格式が高く、張見世に出た遊郭たちは客に正面を向かず、横顔しか見せませんでした。
200年以上にわたって栄えた二丁町遊郭の最盛期は安政6年(1859年)、遊女見習いの禿まで含めて335名の遊女が在籍していたと言います。
一方で妓楼の数は元禄5年(1692年)がピークで、80軒ほどが営業していました。
大小さまざまな妓楼が華を競う中、特に有名だったのが蓬莱楼(ほうらいろう)。開業したのは明治3年(1870年)と武士の世が終わってからですが、日本三大楼の一つにも数えられたとか。
この蓬莱楼は日本で初めて洋装の遊女を採用し、また建物も文明開化に合わせてか洋館風に改装したことにも特色があります。
かくして明治・大正・昭和と存続してきた二丁町遊郭。しかし昭和20年(1945年)6月19日~20日にかけて米軍が無差別爆撃を行いました(静岡空襲)。
二丁町遊郭は全焼してしまい、その後再建されないまま300年以上の歴史に幕を下ろしたのです。
終わりに
今回は駿府の二丁町遊郭について、その歴史をたどってきました。
現代ではわずかにその名残を留めるに過ぎませんが、かつて様々なドラマが描かれたことでしょう。
他の遊郭についても、また改めて紹介したいと思います。
※参考文献:
安藤優一郎 監修『江戸を賑わした 色街文化と遊女の歴史』カンゼン、2018年12月 杉山拓大「駿府二丁町遊廓の遊女屋と遊女」日本の文化と「今」をつなぐ - Japaaan

