徳川家康を二度破った知将・真田昌幸 豊臣秀吉が“表裏比興の者”と称した男の最期【後編】

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徳川家康を二度破った知将・真田昌幸 豊臣秀吉が“表裏比興の者”と称した男の最期【後編】

上野国の土豪として始まり、やがて豊臣秀吉の傘下に入り、さらに独立大名として戦国の世を颯爽と駆け抜けた真田一族

その真田一族の中でも、真田幸隆・昌幸・信繁・信幸の三代にわたる事績を紹介していく。

真田昌幸像「信濃真田家13代当主・幸正所蔵」 (Wikipedia)

【後編】では、徳川家康に二度までも煮え湯を飲ませた知将・真田昌幸について、その後半生ともいえる「第二次上田合戦」以降の人生についてお話ししよう。

【前編】の記事はこちら↓

家康を二度破った知将・真田昌幸 武田信玄に“我が両眼の如し”と称された伝説的な戦功の数々【前編】

豊臣傘下の大名として小田原征伐・朝鮮出兵に参加

「第一次上田合戦」で徳川家康を破った真田昌幸は、豊臣系大名の間で広く知られる存在となった。秀吉は、昌幸をして“表裏比興の者”と称したと伝わる。

これは、「比興=卑怯」ではなく、主君・武田氏滅亡後、小大名の真田家を独立大名として維持してきた「狡猾で策略に長けた人物」という意味での称賛だった。

ちなみに家康は昌幸を「稀代の横着者(悪賢い者)」と嫌忌し、『三河後風土記』では「生得危険な姦人(腹黒く悪賢い人物)」と畏怖したという。

川中島百勇将戦之内「拾六才初陣真田喜兵衛昌幸・歌川国芳作」(Wikipedia)

こうした経緯もあってか、1585(天正13)年には、上杉景勝のもとにいた次男・信繁が、豊臣家の人質として大坂に出仕し、昌幸も豊臣家に臣従することとなる。秀吉は信繁をたいそう気に入り、小姓として側に置いたうえ、豊臣姓を名乗ることを許した

また、信繁はこの大坂で大きな成果を得た。それは秀吉の寵臣・大谷吉継の娘を妻に迎えたことであった。

『太平記英雄傳 大谷刑部少輔吉隆』落合芳幾画(Wikipedia)

翌1586(天正14)年、秀吉は京都における豊臣家の拠点として聚楽第を築城。ここで後陽成天皇を饗応し、徳川家康、織田信雄、毛利輝元ら有力大名との謁見を果たした。

この間、秀吉は四国の長宗我部氏や九州の島津氏を服従させるなど、着実に天下統一事業を進めていた。そして1589(天正17)年、ついに関東の雄・北条氏に対し宣戦を布告する。

北条氏政像「小田原城所蔵」(Wikipedia)

この戦いは「小田原の役」「小田原征伐」と呼ばれるが、その発端の一つは北条氏と真田氏の所領をめぐる争いであった。

かねてより上野国の領有をめぐっては昌幸と北条氏政が対立していた。これをみた秀吉はその仲裁を行ったが、突如として北条方が真田方の名胡桃城を奪取。これに激怒した秀吉が、ついに北条征伐を決定するに至ったのである。

小田原の役の発端となった名胡桃城(撮影:高野晃彰)

秀吉は、総勢23万におよぶ大軍を水陸両面から北条氏の本拠・小田原へと進軍させた。昌幸は、越後の上杉景勝や加賀の前田利家を中心とする約3万5千の北陸支隊の一部として参陣し、信之・信繁もこれに従ったとされる。

北陸支隊は、信濃・上野の国境にあり北条方の重臣・大道寺政繁が城主を務める松井田城を攻略。さらに箕輪城、鉢形城、八王子城を次々と墜とし、小田原城を包囲する豊臣本隊と合流した。

小田原市に残る北条氏時代の小田原城遺構(Wikipedia)

そして開戦から約4か月後、北条氏政・氏直父子はついに降伏を決断。氏政らの自尽を条件に小田原城は開城し、ここに北条氏は事実上滅亡したのである。

北条氏を滅ぼし名実ともに天下統一を成し遂げた豊臣秀吉は、次なる目標として中国・明の征服を掲げた。1592(文禄元)年、秀吉は九州・福岡市郊外に侵攻軍の渡海拠点として名護屋城を築き、そこに総勢19万近い大軍を集結させた。

名護屋城(佐賀県立名護屋城博物館)

この「朝鮮出兵」は、1592(文禄元)年から1598(慶長3)年にかけて、2度にわたって遠征軍を朝鮮半島に送り込んだもので「文禄・慶長の役」とも呼ばれている。しかし、昌幸は渡海軍には加わらず、秀吉直属の旗本衆として本陣を固めるにとどまった。

そして、1598年(慶長3年)に秀吉が伏見城で死去すると、「朝鮮出兵」も終結することとなったのである。

第二次上田合戦でまたしても徳川の大軍を翻弄

秀吉の死により朝鮮出兵は幕を閉じたが、実はこの戦いが豊臣家に大きな禍根を残すこととなった。加藤清正・福島正則ら武断派と、石田三成・小西行長ら文治派との間で対立が生じたのである。

石田三成出生地碑と三成像「滋賀県長浜市石田町」(Wikipedia)

この混乱に乗じて家康は大坂城西の丸に腰を据え、諸大名への加増や転封を独断で裁定するなどして、その権力を次第に強めていった。

こうした家康の動きに危機感を抱いた三成らは、家康が会津の「上杉景勝討伐」に出兵した隙を突いて挙兵する。これが関ヶ原の戦いであり、石田方を「西軍」、徳川方を「東軍」と称する。

関ヶ原合戦図屏風「関ケ原町歴史民俗資料館」(Wikipedia)

この事態において真田父子は、昌幸と次男・信繁が西軍に、長男・信之は家康の養女・小松姫(本多忠勝の娘)を正妻としていたことから東軍に属することとなった。昌幸と信繁が西軍についたのは、信繁の正室が大谷吉継の娘・竹林院であったからだ。

昌幸は信繁とともに急ぎ上田城に戻ると、中山道を西へ進軍してくる徳川秀忠率いる3万8千の大軍を、わずか5千の兵で迎え撃った。昌幸は上田城内で指揮を執り、城外の居館や寺院を砦として利用し、そこに伏兵を配置。また、外堀となる神川の水を堰き止めることで、徳川軍に備えた。

上田城大手門(上田市観光協会)

真田軍を小勢と侮った徳川軍は、一気に押し潰そうと上田城三の丸へ突入。しかし、防御を強化して複雑に縄張りされた三の丸に兵があふれ大混乱をきたし、やがてそのまま二の丸へと押し込まれるような戦況となった。

上田城二の丸空堀(撮影:高野晃彰)

そこに大手門を開いた信繁隊が突出し、同時に各砦から伏兵が徳川軍に襲い掛かった。この攻撃に徳川軍はたまらず城下から退却。しかし神川を渡ろうとしているところに、堰止めしていた水を一気に流されたために「我軍大いに敗れ、死傷算なし」という惨状をきたしてしまった。

上田城防御の砦であった大輪寺(撮影:高野晃彰)

「第一次上田合戦」に続き、昌幸はまたしても徳川の大軍を撃破し、その知将としての名を天下に知らしめたのである。

関ケ原の敗戦で九度山配流。そこで生涯を閉じる

上田城で秀忠の大軍を翻弄した昌幸であったが、結局、関ヶ原の戦いは東軍が勝利した。

西軍の主だった将たちは家康によって処罰され、昌幸・信繁父子もその対象となった。石田三成や小西行長は処刑されたが、昌幸父子は信之の懸命な助命嘆願により、死一等を減じられ、高野山山麓の九度山に蟄居を命じられた。

昌幸が流された九度山(撮影:高野晃彰)

上田城を徳川方に接収され配流地に向かう際、昌幸は「さてもさても口惜しきかな。内府(家康)をこそ、このようにしてやろうと思ったのに」と、信之に無念の胸中を語ったと伝えられている。

昌幸は信繁とともに九度山で10年を過ごした。その配流生活は、さしもの昌幸をも疲弊させたようである。信之に宛てた書状には、「此の方別儀なく候、御心安くべく候。但し此の一両年は年積もり候故、気根草臥れ候。万事此の方の儀、察しあるべく候」とある。

そして1611年(慶長16)6月4日、天下人・徳川家康を相手に一度ならず二度までも煮え湯を飲ませた稀代の知将は、その波乱の生涯に幕を下ろした享年65であったという。

まとめにかえて・真田昌幸の略年表

1547(天文16)年/武田氏の本拠・甲府で誕生。(異説あり)
1553(天文22)年/武田信玄へ人質として出仕。
1561(永禄4)年/第四次川中島合戦に参戦。この時初陣か。
1566(永禄9)年/正室・山の手殿との間に長男の信之誕生。
1567(永禄10)年/同じく山の手殿との間に次男の信繁誕生。
1575(天正3)年/兄二人が戦死し、真田家の家督を継承。
1580(天正8)年/北条方の上野国・沼田城を奪取。
1581(天正9)年/武田勝頼から新府城の普請を命じられる。(異説あり)
1582(天正10)年/勝頼を岩櫃城に誘うが果たせず武田氏滅亡。
1585(天正13)年/第一次上田合戦で徳川家康を破る。
1600(慶長5)年/第二次上田合戦で徳川秀忠を破る。
1611(慶長16)年/配流先の九度山で死去。

九度山に伝わる真田の抜け穴(撮影:高野晃彰)

昌幸の死後から3年後の1614(慶長19)年、大坂の冬の陣において「真田が大坂城に入城した」との知らせを受けた家康は思わず「親の方か?子の方か?」と尋ねたという。

家康のこの発言は、3年前の昌幸の死を疑っていたことを示唆する。そして、大坂入城は昌幸ではなく、信繁と知って安堵したとも伝わっている。

死してなお「表裏比興の者」として、家康を畏怖させた真田昌幸の面目躍如たる逸話であろう。

※参考文献
高野晃彰著・編集 『真田幸村歴史トラベル 英傑三代ゆかりの地をめぐる』メイツユニバーサルコンテンツ刊

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