徳島の地名に残る「蜂須賀」とは誰? 刀より知恵で国を治めた戦国武将・蜂須賀家政の生涯【前編】

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徳島の地名に残る「蜂須賀」とは誰? 刀より知恵で国を治めた戦国武将・蜂須賀家政の生涯【前編】

徳島に暮らしていれば、「蜂須賀(はちすか)」という名前に聞き覚えがある人も多いでしょう。駅や学校、橋や施設、いろいろな場所にその名が残っています。でも、名前の由来まで知っている人は、案外少ないかもしれません。

由来となった人物の名前は、蜂須賀家政(はちすか いえまさ)。阿波国――つまり現在の徳島県を治めた初代藩主です。しかし、家政は、ただ武力だけで成り上がった武将ではありませんでした。大きな時代の波を読み、刀よりも知恵で国を守った「生き残りの名手」とでも呼ぶべき人物でした。

蜂須賀家政(個人像、wikipediaより)

その生き方をたどると、「戦国武将=戦ってばかり」というイメージが、少し揺らいでくるかもしれません。

13歳で初陣、父とともに戦場へ

家政が生まれたのは1558年。尾張国、いまの愛知県でのことです。父は蜂須賀小六(正勝)といい、豊臣秀吉の子飼いの武将として有名な人物。そんな家に生まれた家政もまた、若くして武士としての道を歩み始めます。

初陣は、なんと13歳。戦場は姉川。名だたる武将たちが激突するなか、まだ少年の家政が戦に身を投じたのです。

その後は、父とともに各地の戦に出陣。中国、四国、九州、小田原――派手さはなくとも、しっかりと戦功を積み重ねていきます。

阿波一国、十八万石の大名に

1585年、家政は秀吉から阿波国一国、十八万石の大名として任じられます。

土地の広さもさることながら、阿波という場所は決してやさしい領地ではありませんでした。

当時の拠点は山奥の一宮城。守りには優れていても、広い国を治めるには不便すぎる。家政は早々に決断を下します。

山を下りて、新たに徳島城を築き、城下町づくりを始めたのです。これが、いまの徳島市のはじまりになります。

ですが、支配の交代は、そう簡単には受け入れられません。阿波には土着の土豪たちが残り、蜂須賀の支配に反発を見せました。祖谷山一揆――これはその象徴ともいえる事件です。

土地と人に寄り添う統治

家政は、力でねじ伏せるだけの武将ではありませんでした。武力とともに懐柔策を重ね、検地を進め、支城を築き、支配体制を一つずつ整えていきます。

交通や治安の整備のため、「駅路寺制度」という独自の仕組みまで設けました。

刀を振るうより、地を耕し、人を繋ぐ。そういう仕事にこそ、彼の本領があったのだと思います。

もう一つの“戦国の生き方”

家政は、いわゆる“戦って名を上げた英雄”ではありませんでした。

けれど、乱世に生き、土地に根を下ろし、民と向き合いながら国を築いたその姿は、別の意味でとても雄々しい。

時代の荒波に逆らわず、かといって流されもせず。静かに、自分の場所を守り抜いた男がいた――そのことを、まず心に留めておきたいと思います。

次回の【後編】に続きます。

参考文献

白石一郎「阿波の狸」『弓は袋へ』新潮社 1991 石躍胤央・他『徳島県の歴史』山川出版社 2007

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