京都 三条大橋「土下座像」の正体は? 実は土下座ではなかった尊皇思想家・高山彦九郎の忠義心【後編】 (2/3ページ)
旅は学びと伝達の営みでもあったのです。
久留米での最期1793年(寛政5年)、九州を巡っていた彦九郎は久留米の医師・森嘉膳宅に滞在していました。6月27日の夜、突然自刃し、翌日息を引き取りました。46歳の生涯でした。
辞世には「朽はてて身は土となり墓なくも心は国を守らんものを」とあります。死の理由については定かではありません。自ら「狂気」と答えた記録が残る一方で、薩摩説得の失敗や幕府の監視を苦にしたとも言われます。いずれにせよ、彼は「志に殉じた人」として語られることになりました。
死後の評価遺体は久留米の遍照院に葬られました。1869年(明治2年)、子孫に三人扶持が与えられ、1878年(明治11年)には正四位が追贈されています。郷里には高山神社が創建され、1996年(平成8年)には記念館も開館しました。
三条大橋に建てられた銅像は、戦時中に供出されましたが、1961年(昭和36年)に再建され、現在に至ります。通称「土下座像」と呼ばれますが、本来は天皇への敬意を形にした「望拝」の姿です。
伊勢崎藩家老、関睡峒による高山彦九郎の肖像画 新井雀里 編『高山芳躅誌』
高山彦九郎は、もともと身分の高い武士ではありませんでした。薩摩や長州のような大藩の志士たちに比べれば、彼は群馬の一郷士の出身にすぎません。しかし彼はそれを言い訳にせず、ただ「天皇に忠義を尽くす」という信念を胸に、北は津軽、南は鹿児島まで、ひたすら歩き続けました。
道中で見聞きしたことを細かく日記に書き留め、社寺の姿や農民の暮らし、飢饉に苦しむ人びとの現実を克明に記しました。