【豊臣兄弟!】豊臣秀吉の悪趣味を象徴?侘び寂びを裏切った「黄金の茶室」とはどんな造りだったのか

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【豊臣兄弟!】豊臣秀吉の悪趣味を象徴?侘び寂びを裏切った「黄金の茶室」とはどんな造りだったのか

百姓の倅から一代で天下人へと成り上がった豊臣秀吉。派手な言動で人々を惹きつけ続けたその生涯は、日本史を大いに彩ったと言えるでしょう。

そんな秀吉の派手さを象徴する一つとして、黄金の茶室が挙げられます。

茶の湯(茶道)を嗜む場でありながら、侘寂(わびさび)とは一切無縁。豪華の過ぎたるは却って野暮が如し、元々育ちのよろしくない秀吉の悪趣味ぶりを、いかんなく発揮した作品と言えるでしょう。

今回はそんな黄金の茶室について、紹介したいと思います。

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黄金の茶室がたどった歴史

MOA美術館に展示されている黄金の茶室。筆者撮影

秀吉が黄金の茶室を披露したのは天正14年(1586年)1月、年初の参内において御所へ運び込み、正親町天皇(おおぎまちてんのう。第106代)の天覧に供されました。

……くわんはく(関白)こかね(黄金)のすき(数寄)のさしき(座敷)もちて御まいり候て。小御所にて御めにかけらせられ候て……

※『お湯殿の上の日記』天正14年(1586年)1月16日条

【意訳】関白秀吉は黄金でできた数寄座敷(茶室)を運び込み、小御所にて天皇陛下のお目にかけて……。

組立式であちこちへ移動できる茶室というのは当時(多分現代でも)珍しく、翌天正15年(1587年)10月に開催された北野大茶湯(きたのおおちゃのゆ)でも披露されました。

基本的には大坂城に設置されていた黄金の茶室は、文禄元年(1592年)に朝鮮征伐の前線拠点であった名護屋城へ移設されたものの、その後は再び大坂城へ戻されます。

そして歳月は流れ、慶長20年(1615年)に大坂夏の陣で豊臣家滅亡と共に焼失してしまったのでした。

ただしはっきりそうとは書かれていないため、滅亡以前に解体された可能性もないとは言えません(とは言え、滅亡時点でも潤沢な金銀を蓄えてあった豊臣家において、茶室を解体してまで金を掻き集める理由はなさそうですが……)。

『宗湛日記』に見る黄金の茶室

黄金の茶室。掛け軸には「豊国大明神」の文字。筆者撮影

こうした経緯から、秀吉が造った黄金の茶室は現存していません。

果たしてどのようなものであったのかについては、博多の商人・神屋宗湛(かみや そうたん)の日記などが参考となります。

……柱は金を延て包み(金箔を張り)、敷も鴨居も同前也。壁は金を長さ六尺ほど、広五寸ほどづゝに延てがんぎにしとみ候……

……縁の口には四枚の腰障子にして、骨と腰の板は金……

……へりには金らん(萌黄地金襴小紋)、中すみ(畳の床)には越前綿(真綿)……

※『宗湛日記』文禄元年(1592年)5月28日の記述より。

このほか畳表は朱紅色の猩々皮(しょうじょうひ)、茶道具も茶筅(ちゃせん)と茶巾(ちゃきん)を除いてすべて金箔を張った徹底ぶりです。

金と赤が支配する空間は、まさに秀吉が目指した絢爛豪華の極みだったのでしょう。

各地で復元された黄金の茶室

茶道具まで金ピカ。筆者撮影

豊臣家の滅亡によって幻となってしまった黄金の茶室は、その後いくつか復元されました。

いしかわ生活工芸ミュージアム(石川県金沢市) SGC信州ゴールデンキャッスル(長野県松本市) MOA美術館(静岡県熱海市) 大阪城天守閣(大阪府大阪市) 佐賀県立名護屋城博物館(佐賀県唐津市) 長福寺(富山県富山市) 箔座(石川県金沢市)

すべて見学してきたわけではないのですが、構造はすべて同じなのでしょうか。あるいはそれぞれのアレンジが加えられているのか、見比べてみたいですね。

終わりに

今回は秀吉が自身の権力を誇示するために造った黄金の茶室について紹介してきました。

すべてが黄金に包まれた室内で飲むお茶は、果たして美味しいのでしょうか。

令和8年(2026年)NHK大河ドラマ「豊臣兄弟!」でも恐らく登場すると思うので、今から楽しみにしています。

※参考:

小澤富夫「『宗湛日記』の世界-神屋宗湛と茶の湯-」

日本の文化と「今」をつなぐ - Japaaan

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