『べらぼう』寛政の改革は失敗? 松平定信と祖父・徳川吉宗の改革を徹底比較[中編]

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『べらぼう』寛政の改革は失敗? 松平定信と祖父・徳川吉宗の改革を徹底比較[中編]

NHK大河ドラマ『べらぼう~蔦重栄華乃夢噺~』では、主人公・蔦屋重三郎(横浜流星)を中心とする仲間たちが「チーム蔦中」を結成し、彼らが「ふんどし野郎」と呼ぶのが、幕府の筆頭老中・松平定信(井上祐貴)だ。

定信は、江戸幕府の三大改革(田沼意次の政治を含め「四大改革」とも)に数えられる「寛政の改革」を主導した人物。彼が理想としたのは、祖父であり第8代将軍・徳川吉宗の政治、すなわち「享保の改革」だった。

吉宗の享保の改革は、幕府財政を一時的にも立て直したと評価される一方、定信の寛政の改革は、あまりに厳格すぎたため反発を招き、失敗に終わったとされている。

本稿では、定信が手本とした享保の改革に焦点をあて、寛政の改革と対比しながら考察する。

[前編]の記事↓

『べらぼう』寛政の改革は失敗?松平定信が憧れた祖父・徳川吉宗との違いは何だったのか?[前編]

2回目となる[中編]では、両改革の政策における共通点である「質素倹約」「大奥への対応」についてお話ししよう。

徳川吉宗

質素倹約を自らに課した吉宗と庶民に強要した定信

「享保の改革」「寛政の改革」も、その基本は行き詰まった幕府財政の再建、すなわち「財政改革」にあった。

現代の企業にも言えることだが、財政を立て直すには、まず無駄を省くコスト削減を行うのが常道である。そこで、吉宗も定信も先ずは「質素倹約」を打ち出した。ただし、吉宗の質素倹約に比べると、定信の方がはるかに厳しかったとされる。

では、ここからは、2人の打ち出した質素倹約を比べてみよう。

吉宗は、紀州藩主時代から贅沢を戒め、節約を基本とする質素倹約を軸に藩政改革を進め、実績を上げていた。そのため、享保の改革においては、それをさらに上回る大幅なコストカットが実践された。

徳川吉宗騎馬像

もともと合理主義者であった吉宗は、不要と考えるものは次々に廃止し、必要ではあるが贅沢とみなされるものは質素な代替品に切り替えていったのである。

こうした方針において、吉宗はまず自らの生活を改めることで、人々に模範を示した。彼は衣服を絹から木綿に改め、食事も1日3食から2食とし、その内容も一汁三菜という、将軍としては考えられないほど質素なものにしたのである。

そして自ら率先して質素な生活を送り、大名や旗本にもそれを奨励した。その中には儀礼の簡素化も含まれており、前将軍の葬儀についても経費を切り詰めたとされる。

一方、松平定信の「寛政の改革」はどうだっただろうか。田沼政治を引き継いだ当時の日本では、長期間にわたる冷害や火山の噴火、豪雨などの自然災害が相次いだ。その影響で農作物の不作が続き、多くの餓死者を出すなど、社会は非常に不安定な状況に陥っていた。

さらに、大坂や江戸などの都市部では打ちこわしが頻発したため、定信は治安の回復を最優先課題とした。同時に、身分や立場を問わず極端な質素倹約を強行したのである。

松平定信

寛政の改革の柱は「風紀の取り締まり」「緊縮財政」であった。特に風紀を乱すと見なされたものには厳しい規制が加えられ、庶民が楽しんでいた娯楽の多くが禁じられた。歌舞伎などの演劇や、黄表紙・狂歌といった文芸もその対象とされたのである。

このあまりにも厳しすぎる取り締まりによって、「チーム蔦重」にも大きな犠牲が生じた。朋誠堂喜三二(尾身としのり)は筆を折り恋川春町(岡山天音)は自害。さらに山東京伝(古川雄大)は手鎖50日の刑に処され、蔦重も身上半減により財産の半分を没収されたのである。

贅沢な衣服や装飾品だけでなく、娯楽や文化までも奪われたことで庶民の不満は高まり町の活気は失われた。その結果、田沼時代に活況を呈していた経済は、停滞することとなったのだ。

幕府財政を緊縮するため大奥にメスを入れる

吉宗と定信が打ち出した質素倹約策の中で、やり玉に挙げられたのが「大奥」である。

吉宗は、大奥の大規模なリストラを断行した。大奥とは、江戸城内における将軍の私生活の場であり、その始まりは三代将軍家光の乳母・春日局が、世継ぎ誕生を願って側室候補の女性たちを江戸城に集めて住まわせたことに由来するとされる。

春日局

大奥はその後、役割やしきたりが時代とともに変化していったが、吉宗が江戸城に入った頃には、幕府財政の約25%を浪費する存在となっていた。

当時、大奥には将軍の側近くに仕える女中から下働きの女性まで、約4,000人が在籍していたが、吉宗は段階的にリストラを進め、最終的には約1,300人にまで削減している。

この際の有名な逸話として、リストラの対象は若く美しい者からとされたというものがある。そうした女性ならば、大奥を去っても嫁ぎ先や働き口が見つかりやすいだろうという、吉宗なりの配慮であったと伝えられている。

ともあれ吉宗は、大奥の人員を減らすことにより、その人件費を抑え、予算削減を実現させたのである。

一方、定信も吉宗に倣い、大奥の贅沢さに目を付けた。吉宗がコストカットを行ったものの、寛政の改革以前には大奥の年間経費は20万両にのぼった。仮に1両を12万円として換算すると、実に240億円に相当する。

この無駄遣いをどれだけ減らせるかが、改革の鍵だと考えた定信は、大奥の経費を3分の1にまで削減した。しかし、贅沢に慣れきっていた大奥の女性たちは、定信のやり方に憤懣やるかたなかったという。

そして、この大奥の不満がやがて、定信失脚の一端となっていくのである。

それでは、次回[後編]では、「享保の改革」と「寛政の改革」の相違点について考察していこう。

※参考文献
矢部健太郎監修 『偉人たちのやばい黒歴史』宝島社刊

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