名作『劔岳 点の記』は史実と違う?名峰の”初登頂”に至った者・至らなかった者は誰か?
歴史的事実との違い
新田次郎の同名小説に拠る映画『劔岳 点の記』が2009年6月に封切られると、200万超の観客を集める大ヒットを記録し、いくつかの映画賞も授かって大きな話題になりました。
映画は、ただひたすら難峰登頂に挑んだ男たちの苦闘を描いた、見事な山岳ドラマでした。
「現地撮影」にこだわり続けた監督の執念と、出演者たちの迫真の演技が相俟って感動を呼び、雄大な剱の雪渓と過酷な気候も画面いっぱいに描かれ、涙した観客も多かったといいます。
しかし、新田の小説も映画もかなり脚色が施されており、歴史的事実とは遠く離れているのです。今回はそのあたりの「本当のところ」を解説します。
地図の空白部自らの国土について、厳密な現地測量に基づく正確な地図を作成することは、国家の近代化を進める明治政府にとって必須の事業でした。
政府は早くからこれに着手しており、幾多の曲折を経て1884(明治17)年には地形測量の事業を国防重視の観点から陸軍に一本化します。陸地測量部がこれを担うようになりました。
ところが、国内測量終了間際になっても剱岳は未踏のままに残されていました。
剱岳周辺は、すでに立山(雄山)の一等(明治27年選点)、大窓・大日岳・鹿島槍ヶ岳の二等、さらに5ヵ所の三等三角点に囲まれてはいたものの、地図の正確さを期するには、剱岳にも三角点が不可欠だといわれていたのです。
上層部は、担当の測量手・柴崎芳太郎らを動かし、「初登頂」へと向かわせます。
しかし、剱岳を禁忌の山としていた立山宗徒の集落・芦峅寺の人々は、測量隊への人夫の提供を渋ります。
やむなく柴崎は隣の大山村を頼ると、雇い入れた人夫のなかに、天才的判断力と登山技術を持った宇治長次郎がいました。
長次郎は立山信仰に従順だったため、大きなジレンマを抱えつつ、測量隊には「氏名不詳」で参加します。それでも彼が測量隊の登頂に主導的役割を果たしたのは、小説や映画のとおりです。
「初登頂」は誰だったのか1907(明治40)年7月13日、長次郎は柴崎配下の測夫・生田信らを、頂上への登路と思われる険しい谷に導きます。しかし山頂へ続くコル(小鞍部)の手前で自身が落伍し、後は同行の仲間に託すことにしました。
大命を背負って登頂を果たした生田は、頂上で平安時代の遺品と目される錫杖の頭と鉄剣を発見して愕然とします。
確かに自分が初登を成し遂げたはずのこの難峰を、はるか遠い時代に何者かがすでに制していたのです。このあたりのドラマは、有名すぎるくらいなので説明するまでもないでしょう。
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下山した生田は、登頂ルートは難路なので、三等三角点の選点に要する資材や測量機器の運搬は不可能であることを柴崎に告げます。
そして7月28日、柴崎らは同じルートを使って登頂を果たし、四等三角点を設けて任務を完了しました。
この時、長次郎が頂上に立った事実は確認できていません。隊長の柴崎も山頂には至りませんでした。またここまでの経緯を見ても分かる通り、この任務に長次郎は不参加でした。
つまり、映画や小説のように、ふたりがともに剱岳山頂に立ったという事実は確認できないのです。
それから…長次郎が再び剱岳に姿を見せるのは2年後のことでした。1909(明治44)年、今度は日本山岳会の吉田孫四郎と石崎光瑤に、一般登山者の初登頂の案内を請われたのです。
信仰でもなく、仕事でもなく、純粋に山に登ることを楽しむ近代登山の波は、剱岳にも及んでいました。
吉田らは、長次郎を、測量隊の登頂をリードした剛の者として迎え、彼が取ったルートを長次郎谷と命名、敬意を顕したのです。
長次郎も自らに課してきた宗教的な禁忌を解いて、晴々と登頂を果たしたといいます。
これ以降、長次郎は剱岳・立山・黒部渓谷など、北アルプスの未踏の山域に積極的に分け入り、名案内人として大活躍することになりました。
剱岳にようやく三等三角点が設置されたのは2004年8月のことで、剱岳測量百周年記念事業の一環として行なわれました。選点者は、あのときその地の選定を命じた柴崎芳太郎でした。
参考資料:『週刊 ふるさと百名山 5号 剱岳』集英社2010/7/13
画像:photoAC,Wikipedia
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