【べらぼう】寛政の改革で時代が彼に追いついた…『即席耳学問』の作者・市場通笑とは?
寛政の改革によって恋川春町(岡山天音)が自害し、朋誠堂喜三二(尾美としのり)が国許へ帰されて以来、みんな黄表紙から手を引きつつありました。
何とか戯作者を確保しようと、蔦重(横浜流星)は市場通笑(いちば つうしょう)に白羽の矢を立てます。
※第37回放送「地獄に京伝」では、おていさん(橋本愛)が蔦重に対抗しようと声をかけた形になっていました。
【べらぼう】きよの足の異変は何?大崎の老女罷免、蔦重渾身の黄表紙ほか…9月28日放送回の振り返り解説果たして寛政2年(1790年)に『即席耳学問(そくせき みみがくもん)』が出版されたのですが……。
今回はこちらの市場通笑とは何者か、その生涯をたどります。
表具師から戯作者へ
市場通笑は元文2年(1737年)、江戸の日本橋通油町で表具師を営む小倉屋の息子として生まれました。
幼いころから家業を手伝い、やがて自身も表具師となります。
通称は小倉屋喜平次(きへいじ)、諱は寧一(やすかず)。また字(※)を子彦(しげん)と言いました。
(※)あざな:中国大陸の古習で、成人男性が名乗った通称。江戸時代の文化人もよく称する。
また俳諧をよくして橘雫(きつだ)と号し、教訓亭(きょうくんてい)や三文生(さんもんしょう/さんもんせい)などの別号も使い分ける教養人だったそうです。
そんな通笑が戯作者となったのは安永8年(1779年)、初めての黄表紙『嘘言彌二郎傾城誠』を出版しました。
市場通笑の主な作品
『嘘言彌二郎傾城誠(うそつきやじろう けいせいのまこと)』安永8年(1779年)
『飲中八人前(いんちゅう はちにんまえ)』安永9年(1780年)
『思事夢濃枕(おもうこと ゆめのまくら)』天明元年(1781年)
『教訓蚊之呪(きょうくん かのまじない)』天明2年(1782年)
『能息子内栄(よいむすこ うちがさかえる)』天明3年(1783年)
『もふもふ古和以噺(~こわいはなし)』天明4年(1784年)
『魚と水 通和者交(うおとみず つわものまじわり)』天明5年(1785年)
『高砂屋尾上金(たかさごや おのえのかね)』天明6年(1786年)
『二昔以前の洒落(ふたむかし いぜんのしゃれ)』天明8年(1788年)
『即席耳学問』寛政2年(1790年)
『忠孝遊仕事(ちゅうこう あそびしごと)』寛政2年(1790年)
『幼馴染花咲祖父(おさななじみ はなさかじじい)』寛政6年(1794年)
『和睦香之物(わぼく こうのもの)』享和2年(1802年)
……等々。劇中では寛政元〜2年(1789〜1790年)時点で、蔦重から
「今ごろ通笑先生に頼む人がいるとはねぇ」
「大事ねぇのか?あの人もう随分(黄表紙を)書いてねぇだろ」
など、何だか過去の人みたいに言われていました。
しかしこう見ると、結構マメに新作を出していたようです。
※概ね1〜2年に1作ペースがマメかはともかく。現代に喩えるなら、コミケに新刊を出すような感覚でしょうか。
寛政の改革で、時代が彼に追いついた?
市場通笑の作風は『教訓蚊之呪』『忠孝遊仕事』などのタイトルから判る通り、教訓ものが多く、当時の黄表紙界では「教訓の通笑」と呼ばれる異色の存在でした。
通笑本人も堅物だったようで、生涯独身を貫き、また妹夫婦と同居していたと言います。
それでも恬淡と暮らしていたことから、江戸市中の人々は通笑を「市中の仙(意:街中に住む仙人)」と呼びました。
著名な弟子はいないようですが、愛情をもって指導したことから、弟子たちからも尊敬を集めていたようです。
安永・天明期こそ滑稽扱いされていた通笑。しかし山東京伝『心学早染草』がヒットしたように、真面目が推奨された寛政期では通笑に時代が追いついたのかも知れませんね。
終わりに
江戸の黄表紙界に大きな影響を与えた市場通笑は文化9年(1812年)8月27日に76歳で世を去りました。
墓所は台東区松が谷の祝言寺にあり、今も人々を見守っています。
NHK大河ドラマ「べらぼう〜蔦重栄華乃夢噺〜」には登場しなさそうですが、当時は他にも多くの戯作者たちが活躍していたのでした。
また他の戯作者についても、紹介したいと思います。
※参考文献:
上田正昭ら監修『コンサイス日本人名事典 第5版』三省堂、2009年1月日本の文化と「今」をつなぐ - Japaaan
