「べらぼう」時代のもう一人の才人──蔦重と同時代に活躍した戯作者・梅暮里谷峨の作品と生涯をたどる (2/3ページ)

Japaaan

36歳となった天明5年(1785年)に出仕し、天明8年(1788年)に初めての黄表紙『青楼五雁金(せいろう いつつかりがね)』を出版しました。

筆名の梅暮里とは、久留里藩邸があった本所埋堀(うめぼり)の地名、谷峨は母方の姓名からとっています。

ほか梅月堂梶人(ばいげつどう かじんど)・蕣亭(しゅんてい)・遊里山人(ゆうりさんじん)などと名乗りました。

※これらの書名は別人物とする説もあり。

続いて寛政2年(1790年)に『文選臥坐(もんぜんがざ)』と『染抜五所紋(そめぬき いつどころもん)』を出版します。

しかし時はまさに出版統制の嵐が吹き荒れる最中。しばらく文筆活動は自粛したようです。

やがて45歳となった寛政6年(1794年)には家督を相続。50石取の馬廻席となりました。

のち江戸詰の大目付に抜擢されており、能力と勤勉さが評価されたのでしょう。

復帰後は黄表紙界を牽引

梅暮里谷峨『傾城買二筋道』より。

かくして一度は筆を置いた梅暮里谷峨ですが、寛政10年(1798年)から文筆活動を再開。多くの作品を世に送り出しました。

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