【べらぼう】後に松平定信を転落へと追い込み…本多忠勝の血を引く老中「本多忠籌」の信念と結末

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【べらぼう】後に松平定信を転落へと追い込み…本多忠勝の血を引く老中「本多忠籌」の信念と結末

「人は正しく生きたいのではなく、楽しく生きたいのです」

大河ドラマ「べらぼう」の前回放送で、松平定信(井上祐貴)の行き過ぎた倹約令に諫言した本多忠籌(矢島健一)。

ネット上では「よく言った」など賞賛する声と共に「名前が読めない」という声もありました。

彼の名前は本多忠籌(ただかず)と読みます。果たしてどんな人物だったのか、紹介します。

本多忠勝(徳川四天王)の子孫

矢島健一演じる本多忠籌(ただかず)。NHK大河ドラマ「べらぼう~蔦重栄華乃夢噺~」公式サイトより。🄫NHK

本多忠籌は元文4年(1739年)12月8日、本多忠如(ただゆき。陸奥国泉藩主)の長男として江戸下谷で誕生しました。

祖先には徳川四天王の一人として活躍した重臣・本多忠勝がいます。

【本多忠籌 略系図】

……本多忠勝-本多忠政-本多忠義-本多忠常=本多忠直-本多忠如(ただゆき)-本多忠籌-本多忠誠(ただしげ)-本多忠知-本多忠徳(ただのり)=本多忠紀(ただとし)=本多忠伸……

※本多忠勝について:

名前の由来は「ただ勝つのみ」。徳川家康を支えた四天王の一人、本田忠勝とは!?

16歳となった宝暦4年(1754年)8月29日、父の隠居に伴って家督を継ぎ、天明7年(1787年)に若年寄となりました。

そんな忠籌は学問を好んで佐藤玄明窩(げんめいか)に経世済民(経済学)を、また中沢道二(どうに)に石門心学を学びました。

あわせて領民の教化に努め、善教舎(藩校)や郷蔵(非常用備蓄倉庫)を設置、また堕胎の禁止などを行います。

こうした好学の姿勢が定信との親和性を高め、親交を通じて幕閣入りのキッカケとなったのでしょう。

かつての盟友・松平定信を排斥

福山翔大演じる松平信明らと寛政の改革を推進。NHK大河ドラマ「べらぼう~蔦重栄華乃夢噺~」公式サイトより。🄫NHK

天明8年(1788年)には側用人、寛政2年(1790年)には老中格となり、松平定信や松平信明(福山翔大)らと共に寛政の改革を推進していきます。

忠籌は最上徳内『蝦夷草紙』を読み、国防の重要性を痛感。蝦夷地を天領(幕府の直轄地)として開拓を進め、ロシアの南下に対抗するように主張しました。

しかし定信は従来通り松前藩に治めさせるべしとして反対、蝦夷地の天領化が実現したのは退任後の文化8年(1811年)となります。

次第に独裁色を強める定信の排斥を図り、寛政5年(1793年)7月に一橋治済(生田斗真)の賛同を得て、定信を老中解任に追い込みました。

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これを機に、財政を握る老中勝手掛を月番制とすることで権力の集中を予防します。

やがて寛政10年(1798年)に老中を辞任し、翌寛政11年(1799年)に家督を譲り、隠居しました。

そして文化9年(1812年)12月15日、74歳で世を去ります。

終わりに

本多忠籌

徳川家斉(城 桧吏)の政治体制のもとで刷新された寛政の改革を担う幕臣。

※NHK大河ドラマ「べらぼう~蔦重栄華乃夢噺~」公式サイトより。

今回は松平定信に諫言した本多忠籌について、その生涯をたどってきました。

定信が失脚し、蔦重が世を去る寛政9年(1797年)以降も活躍するため、最終回まで登場するかも知れません。

これからも、矢島健一の好演に期待しましょう!

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※参考文献:

黒田源六『本多忠籌侯伝』本多忠籌侯遺徳顕彰会、1942年

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