大河「べらぼう」寛政の改革により閉門処分…”県門の四天王”と称された加藤千蔭(中山秀征)の生涯

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大河「べらぼう」寛政の改革により閉門処分…”県門の四天王”と称された加藤千蔭(中山秀征)の生涯

おていさん(橋本愛)のアイディアを形にするため、蔦重(横浜流星)と二人で加藤千蔭(中山秀征)を訪ねます。

※NHK大河ドラマ「べらぼう〜蔦重栄華乃夢噺〜」第41回放送「歌麿筆美人大首絵」より

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寛政の改革によって閉門処分を受けていたそうですが、彼は何者だったのでしょうか。

今回は加藤千蔭(かとう ちかげ)について、その生涯をたどってみたいと思います。

武士から文化人へ

加藤千蔭(画像:Wikipedia)

加藤千蔭は享保20年(1735年)3月9日、江戸奉行与力を勤めていた加藤枝直(しげただ)の子として誕生しました。

本姓は橘氏。元服して通称を又左衛門(またざゑもん)、字を常世麿(ところまろ)、号に芳宜園(ほうぎえん)などと名乗ります。

父から家督を受け継いで公務につき、宝暦13年(1763年)に町奉行吟味役、やがて父と同じく江戸奉行与力となりました。

天明8年(1788年)に病気のため与力を辞職。田沼政権の崩壊にともなって身を引いたものと考えられますが、松平定信らの追及を免れることはできません。

千蔭は旧田沼派の一人として閉門処分を受け、以降は学問に専念するようになります。

若くから諸学に親しんでいた千蔭は賀茂真淵(かもの まぶち)に師事。国学を修め、やがて県門の四天王と称されるほどの才覚を示しました。

【県門の四天王】

加藤千蔭 楫取魚彦(かとり なひこ) 河津美樹(かわづ うまき) 村田春海(むらた はるみ)

また本居宣長(もとおり のりなが)とも同門で、後にその協力を得て『万葉集略解』を出版しています。

ほか書を松花堂昭乗(しょうかどう しょうじょう)に学び、画は建部綾足(たけべの あやたり)に教えを受けました。

いっぽう門人も多く、著名なところでは大石千引(おおいし ちびき)・岡田真澄(おかだ ますみ)・清原雄風(きよはら たけかぜ)・窪田清音(くぼた すがね)らがいます。

他にも曲亭馬琴(滝沢瑣吉)が書を学んでいるなど、江戸後期の文化人たちに多大な影響を与えていました。

文化5年(1808年)9月2日に73歳で世を去り、回向院(えこういん。東京都墨田区)に葬られます。

「橘千蔭之墓」と刻まれた墓碑は千蔭が生前に自書したものと伝わり、東京都の旧跡に指定されました。

文化面への影響

『ゆきかひぶり』。千蔭の流麗な書体が黒字に映える。

ここまで加藤千蔭の生涯を駆け足でたどってきました。続いて千蔭が与えた和歌・書画などの影響も見ていきましょう。

歌人でもあった父の薫陶を受け、千蔭は伝統的な『古今和歌集』の歌風に江戸文化を織り込んだ独自の歌流を確立。村田春海と並び江戸派の双璧と称され、上方の文化人からも高く評価されています。

書に秀でて一流派を起こし、千蔭流と呼ばれました。その書を陶器に焼き込んだ千蔭焼や、織物にした千蔭緞子(〜どんす)が盛んに作られ、好事家らに収集されます。

千蔭流の人気は明治時代に入っても健在で、良家の令嬢らが好んで嗜みました。かの樋口一葉(ひぐち いちよう。旧五千円札の女性)も千蔭流に親しんだそうです。

終わりに

おていさん発案の書物を加藤千蔭に依頼する蔦重。NHK大河ドラマ「べらぼう~蔦重栄華乃夢噺~」公式サイトより。🄫NHK

照る月は あやしきものか かなしとも
面白しとも 人に見えつつ

※『うけらが花』より、加藤千蔭

【歌意】輝く月は不思議なもので、人によって、悲しいとも面白いとも感じられる。

同じ月を見ていても、見る人によって様々なとらえ方が出来る面白さを詠んだ一首です。

何が禍福か、解釈一つで変わるもの。閉門処分を受けたからこそ文化活動に専念できて、大成を果たしたのかも知れませんね。

大河ドラマではこの先も活躍するのでしょうか。中山秀征の好演に注目です。

※参考文献:

鈴木淳『橘千蔭の研究』ぺりかん社、2006年2月

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