徳川家康が築いた“幻の伏見幕府”!?将軍在位中、家康が本拠地を京都にしていた理由

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徳川家康が築いた“幻の伏見幕府”!?将軍在位中、家康が本拠地を京都にしていた理由

徳川幕府の成立は、徳川家康が征夷大将軍となった慶長8年(1603年)。ここに疑いや異論を差しはさむ方は多くないでしょう。

幕府の本拠地が江戸であったことから、江戸幕府とも呼ばれていますね。

しかし実は、徳川幕府が必ずしも江戸幕府と言い切れないことについては、あまり意識されていません。

今回は徳川幕府が「伏見幕府」であった時期について紹介したいと思います。

「伏見幕府」が適切?

徳川時代の伏見城(画像:Wikipedia)

徳川家康が征夷大将軍となった慶長8年(1603年)時点で、家康の本拠地は伏見にありました。

関ヶ原の合戦で焼け落ちてしまった伏見城を再建し、そこを政治拠点としていたのです。

家康が征夷大将軍となり、嫡男の徳川秀忠に将軍位を譲った慶長10年(1605年)までの2年間、家康はその大半を伏見や京都で過ごしていました。

幕府の存続を将軍位とし、将軍の居所をもって地名を冠するならば、初代家康の時代についてだけは「伏見幕府」と呼んでも差し支えないのではないでしょうか。

もちろん2代目秀忠から15代徳川慶喜まで、幕府の存続期間中はずっと江戸が本拠地だったことから、江戸幕府と呼んだ方がしっくり来ますが……。

成立当初は未熟だった「幕府」

徳川家康(画像:Wikipedia)

ところで幕府と聞いて、全国規模の巨大な政治組織や統治体制が完備されているイメージを持たれる方は、少なくないかも知れません。

しかし実際には鎌倉幕府・室町幕府そして江戸幕府のいずれも、征夷大将軍の任官をもって成立としています。

そのため、成立時点では政治体制が未熟であり、永い歳月を経て次第に成熟していくのが普通でした。

何なら令和の現代だって似たようなグダグダ……いやいや、日本人の道徳意識によって、概ね順調に維持運営されているのではないでしょうか。

日本人の道徳意識は江戸時代以降に養われていったと言われますが、戦国乱世の荒々しい気風を緩化するため、家康はじめ歴代将軍や為政者は大層苦心したことでしょう。

なお幕府という呼称について、江戸時代以前は政治組織を指す言葉としては(現代で言う「政府」のような感覚では)使われていませんでした。

後世の歴史学者らが便宜上用いた言葉であることを、一応申し添えておきます。

終わりに・やっぱり江戸幕府の方が……。

今回は徳川幕府について、江戸幕府ではなく伏見幕府と呼ぶべき?可能性について紹介してきました。

歴史の常識は絶えず移り変わりますが、幕府の呼称変更により、いつか江戸時代は「伏見時代」と呼ばれる日が来るのでしょうか。

家康の代だけが伏見幕府≒伏見時代で、秀忠の代から江戸時代……めんどくさいですね。やっぱりまとめて江戸時代・江戸幕府でいいのではと思います。

※参考文献:

笠谷和比古『論争 大坂の陣』新潮選書、2025年10月

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