日本の中心に息づく逆臣・明智光秀の血──「本能寺の変」の“その後”に残された末裔たちの真実
「敵は本能寺にあり!」
この一言で知られる明智光秀。戦国史最大の事件「本能寺の変」で、主君・織田信長を討った男です。
しかし、光秀の天下はわずか十一日。あまりに短い栄光のあと、彼とその一族には過酷な運命が待っていました。
――本能寺の変の“その後”、いったい何が起きたのでしょうか。
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しかし、同じく中国地方で毛利攻めを進めていた羽柴秀吉(のちの豊臣秀吉)は、すぐさま和睦して軍を引き返しました。いわゆる「中国大返し」です。
この迅速な行動によって、光秀の軍は整う間もなく山崎の戦いに突入。わずか十日あまりで敗北します。
敗走した光秀は、近江の山中で落ち武者狩りに遭い、最期を遂げました。享年55。その死と同時に、明智家は天下から“逆臣”として追われる立場になります。
一族の滅亡――残された者たちの運命
坂本城や福知山城には、光秀の妻・煕子や子ども、家臣たちが残っていました。しかし、秀吉軍が攻め込むと、ほとんどの者が命を落とします。中には自害して城を守ろうとした者もおり、その結末はあまりに悲惨でした。
一方で、光秀の娘・玉子(たま)は細川忠興に嫁いでいました。のちにキリシタンとして信仰に生き、「細川ガラシャ」と名を残します。彼女は関ヶ原の戦い直前、西軍に人質を求められた際、拒絶して自害。
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けれどもその死によって、細川家は徳川方の信用を得て生き残りました。つまり、光秀の血は“娘の犠牲”によって生き延びたとも言えるのです。
細川家を通じて受け継がれた“光秀の血”
ガラシャの子どもたちは熊本藩主として栄え、明治以降は公爵家に。やがて公家や皇室との婚姻も進み、光秀の血は時代を超えて受け継がれていきます。細川護熙元首相も、その一系にあたります。
最近の研究では、細川家を通して天皇家にも光秀の血が流れている可能性があるとされ、「裏切り者の血が、日本の中心に息づいている」という歴史の皮肉に驚く人も多いでしょう。
けれども、これは光秀が築いた“家の知性”と“理想主義”が、時代を超えて評価された証でもあるのです。
光秀が築いた町――福知山光秀は織田信長の命を受けて丹波を平定したあと、福知山を治めました。それまで山間の一地方にすぎなかった福知山を、彼は徹底的に整備します。治水工事を行い、道路や城下町を碁盤の目状に再編し、税制も整備しました。その政治力は高く評価され、光秀の治めた丹波は“平和で豊かな国”と称えられたほどです。
しかし、本能寺の変のあと、福知山は秀吉の支配下に置かれます。城主は次々と代わりましたが、光秀の作った町の骨格は今も残っています。中心市街地の区画や用水路の一部は、光秀時代の設計を受け継いでおり、まさに“彼が築いたまち”として今も息づいているのです。
“逆臣”から“郷土の英雄”へ
福知山には「明智藪」や「光秀井戸」など、光秀ゆかりの地名が今も多く残ります。また、春には「福知山光秀まつり」が行われ、地元の人々が光秀の功績を称えます。NHK大河ドラマ『麒麟がくる』(2020年)放送時には、福知山城や資料館が全国から注目を集め、観光客が殺到しました。
かつて“逆臣”と呼ばれた武将が、いまや“郷土の誇り”として再評価されている。これは、時代の流れが彼の理想を見直した証拠ともいえるでしょう。
信長を討った理由が「理想の政治への反逆」であったなら、光秀は単なる裏切り者ではなく、“信念を貫いた政治家”だったのかもしれません。
参考文献 小和田哲男『明智光秀 つくられた「謀反人」』(PHP研究所, 1998年) 二階堂省『明智光秀の生涯 歴史随想』(近代文芸社, 1996年) 高柳光壽『明智光秀 人物叢書 1』(吉川弘文館, 1980年) 二木謙一 校注『明智軍記』(新人物往来社, 1995年) 戎光祥出版編集部 編『図説 明智光秀』(戎光祥出版, 2021年) 中村敏英『江戸時代の明智光秀』(思文閣出版, 2015年) 高橋成計『明智光秀の城郭と合戦』(戎光祥出版, 2019年) 菊地浩之『織田家臣団の系図』(KADOKAWA, 2019年)日本の文化と「今」をつなぐ - Japaaan


