大河『豊臣兄弟!』主人公・豊臣秀長(仲野太賀)が「天下一の補佐役」と称されていた理由【前編】
来年1月4日(日)放送開始のNHK大河ドラマ『豊臣兄弟!』は、2年ぶりに戦国時代をテーマにした作品です。
しかも「豊臣兄弟」と言いながら、主人公は秀吉ではなく、弟の秀長というところがコアな歴史好きの心を揺さぶりますね。
NHKの公式ホームページによると、豊臣秀長のプロフィールはこうあります。
「天下人・豊臣秀吉の弟。登場時の名は小一郎(こいちろう)。兄の天下取りを一途に支え続けた『天下一の補佐役』といわれている。」
そう、秀長をしてこの『天下一の補佐役』という言葉こそ、このドラマの核心であり、物語の主題であると考えられます。
今回はドラマの予習も兼ねて、なぜ秀長がこのように呼ばれるのかを2回に分けて考察[前編]では、秀長の生涯を簡単に振り返りながら、『天下一の補佐役』と称される理由を探っていきましょう。
豊臣秀長像・奈良県大和郡山市の春岳院所蔵(Wikipedia)
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大河予習【豊臣兄弟!】秀吉を支えた兄弟の絆…仲野太賀が演じる戦国武将・豊臣秀長の生涯 出生・前半生とも不明な点が多い豊臣兄弟『豊臣兄弟!』の「兄」はもちろん、天下統一を成し遂げた豊臣秀吉(演:池松壮亮)。そして、「弟」はその異母弟・豊臣秀長(演:仲野太賀)です。
本稿では、秀長の生涯について詳しくは述べません。それは「ドラマでのお楽しみ」と言いたいところですが、実際のところ、彼の出生と前半生は不明な点が多いのです。
それは天下人となった兄の秀吉でさえ、出生にはさまざまな説があり、10代後半に織田信長(演:小栗旬)に仕えるまでの前半生については、確定的な史実がないと考えられています。
ただ誕生年としては、秀吉の生年が1536年(天文5年)または1537年(天文6年)とされることから、秀長はその3〜4年後、すなわち1540年(天文9年)頃の出生とみる説が一般的です。となると秀吉とは、3歳違いの弟ということになりますね。
豊公誕生之地碑・名古屋市中村区中村公園(Wikipedia)
また母親については、秀吉・秀長ともに仲(なか、後の大政所/演:坂井真紀)であることが確実ですが、父親については、秀吉が木下弥右衛門とされるのに対し、秀長は弥右衛門説と竹阿弥説があり、いずれも決定的な裏付けがないのです。
弥右衛門は、本当に木下姓であったのか、どこの生まれであったのかなどさまざまな説があり、その実像は判然としていません。身分も信長の父・織田信秀の足軽説、名主層の農民説、漂流民説などがあります。後に秀吉自身が、実父の名を抹消しようとしていることから、最下層に属する民衆の一人であったと考えるのが妥当のようです。
また、竹阿弥に関しても弥右衛門の死後、仲と結婚して秀長と旭が生まれたという説が一般的ですが、弥右衛門と同一人物ということも有力視されていて、こちらも史実的な確定ができないのです。
豊臣軍の軍事司令官として100万石の大大名になるこのように、秀吉と同様に農民、あるいはそれに近い下層階級に生まれたと考えられる秀長ですが、ここからはドラマを楽しむ際の参考程度に、簡単ではありますがその生涯をたどっておきましょう。
秀吉が織田家臣団の中で頭角を現すと、小一郎こと秀長も信長に出仕するようになります。この時期についても定かではありませんが、1573年(天正元年)、北近江の浅井長政を滅ぼした功績で秀吉が長浜城主となると、秀長が城代を務めたことは史実として確実です。
その後、秀吉が中国方面軍の軍団長となると、秀長もその麾下の重要な部将として播磨・但馬を転戦しました。1582年(天正10年)の本能寺の変で信長が倒れると、秀吉本隊が畿内へ急行するのを支えるため、秀長は分隊を率いて鳥取城へ入ります。
秀吉が山崎の合戦で明智光秀に勝利できた背景には、「中国大返し」の奇策だけでなく、秀長が背後を固め、毛利勢などの追撃を抑えた活躍も大きかったとされています。そして、翌年の小牧・長久手の戦いの頃から、「羽柴秀長」と名乗るようになりました。
1585年(天正13年)には、豊臣軍の副将格として紀州を制圧し、この功により64万石を与えられて和歌山城を築城。同年の四国攻めでは総大将を務め、長宗我部元親を降伏させました。その後、紀伊国・和泉国に加えて大和国を加増され、合計100万石を領する大大名として郡山城に入城。さらに従二位大納言に叙任され、「大和大納言・豊臣秀長」と称されるようになります。
秀長は秀吉が心から信頼を寄せた存在だった大和大納言に任ぜられた頃から、秀長は豊臣軍の軍事司令官としての役割に加え、天下統一を推し進める豊臣秀吉の実弟ならではの重要な立場を担うようになりました。
しかし、10年以上にわたり各地を転戦してきた疲労が蓄積したのか、1586年(天正14年)になると秀長は体調を崩すことが増えていきます。
徳川家康/東照大権現像・大坂城天守閣蔵(Wikipedia)
それでも同年秋、上洛を拒み続けていた徳川家康(演:松下洸平)がついに大坂に到着すると、その宿所は秀長の屋敷と定められました。これに先立ち、秀吉は妹の旭(あさひ/演:倉沢杏菜)を家康の正室として娶らせ、さらに母・大政所を人質として家康のもとに送るという入念な根回しを行っています。
そのうえで、秀吉はその晩に秀長邸を訪れ、家康に対してあらためて臣従の確約を求めました。秀吉が、このような屈辱的な行動を秀長の屋敷で行ったということは、秀長を心から信頼できる身内と見なしていたからだといえるでしょう。
また島津氏と対立していた大友宗麟が秀吉に助けを求めて上洛した際、秀長は今後も豊臣家が大友氏を救済することを約束しています。
この時、秀吉は、「内々の儀は宗易(千利休)、外様の事は宰相(秀長)存じ候」と有名な言葉を述べました。つまり、公的なことは秀長が握っていると公言していたのです。
このように、秀長が豊臣政権に果たした役割は大変大きいものがありました。しかし、1590年(天正18年)の初め頃から病が悪化し、秀吉が天下統一を果たす小田原征伐には参加できず、畿内の留守居を務めます。
そして、翌年の1591年(天正19年)正月、秀長は病の悪化のため、郡山城内で52年の生涯に幕を閉じたのです。
さて、[前編]はここまでにしましょう。[後編]では、いかに秀吉が秀長を信頼できる存在として見ていたか、その根拠を説明していきます。
※参考文献:和田裕弘著『豊臣秀長-天下人の賢弟の実像』中公新書刊
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