朝ドラ「ばけばけ」実際に小泉八雲と親交、恋愛関係は?江藤リヨ(北香那)のモデル・籠手田よし子の生涯

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朝ドラ「ばけばけ」実際に小泉八雲と親交、恋愛関係は?江藤リヨ(北香那)のモデル・籠手田よし子の生涯

朝ドラ「ばけばけ」には、多くの魅力的なキャラクターが登場します。

その中には、ヒロイン・トキとその夫となるレフカダ・ヘブンをはじめ、実在した人物も数多く含まれています。

本記事で紹介するのは、ドラマに登場した島根県知事・江藤安宗モデルは籠手田安定)の娘・江藤リヨのモデルとなった、籠手田よし子についてです。

籠手田よし子をモデルとする江藤リヨ(演:北香那。公式Instagramより)。

よし子は勉学や英語に優れ、芸道にも通じた人物でした。加えて人当たりも良かったようで島根の婦人会をまとめる存在として活躍しています.

よし子はどのような人生を歩み、どのような感情を持って生きたのでしょうか。

籠手田よし子の生涯について見ていきましょう。

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籠手田安定の娘として誕生

明治5(1872)年1月、籠手田よし(淑)子は籠手田安定の長女として生を受けました。生母は正妻ではなかったと伝わります。

籠手田家は、戦国時代には平戸地方で松浦氏のもとで活躍した一族です。

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同時代には籠手田泰経ら名だたる武将を輩出。江戸時代に入っても藩士として要職をを務めていました。

幕末には、よし子の父・安定が藩主の親衛隊や情報収集などに従事。藩主一族の信任を受けて藩政に関わる立場となります.

明治になると、安定は明治新政府の役人として出仕。よし子が生まれた翌年の明治6(1873)年には、安定は滋賀県参事(副知事)に就任しています。

その後、明治17(1884)年に安定は元老院議官に、翌明治18(1885)年には島根県知事となります。

このとき、よし子も父に従って島根県に移住。当時から才女と言われ、やがて松江婦人会の会長を務めるほどになったと伝わります。

確かな経歴はわかりませんが、安定の赴任先で女学校に通っていたと推定するのが普通でしょう。

よし子の父・籠手田安定。各地の県知事を歴任し、元老院議官や貴族院議員も務めた。

小泉八雲との出会いと親交

松江では、よし子に運命的な出会いが待っていました。

明治23(1890)年8月、英語教師としてラフカディオ・ハーン(のちの小泉八雲)が松江尋常中学校に赴任。翌9月27日には、ハーンは通訳で同僚でもある西田千太郎とともに籠手田知事邸を訪ねます。

このときは、よし子が婦人会会長を辞任する慰労の会が開かれていました。

よし子は縁戚でハーンと対面。西田の日記によると、よし子は琴を演奏してハーンは感銘を受けたといいます。

ハーンは舞妓たちの踊りも鑑賞。辞任の会とは言え、進行は和やかに進んだと思われます。

当時、満年齢でいえばハーンは40歳、よし子は18歳でした。年齢差もさることながら、立場も国籍も大きく異なります。ただ、その距離感の中で、互いに相手の文化や人柄に敬意を払っていたことが、残された記録からうかがえます。

その後もよし子はハーンとの交流を続けました。

松江の冬は、ギリシャ生まれで温暖な気候に慣れた八雲にとって過酷です。明治24(1891)年の冬、彼は「気管支カタル」と診断されて長く寝込みます。

そのとき八雲のもとに届いたのが、よし子からの見舞状と、一羽の鶯を入れた鳥かごでした。

ハーン自身も西田千太郎宛の手紙の中で、この出来事に触れています。

手紙では「珍しい形の箱に入れられた鶯が届けられたこと」と「贈り主への感謝の言葉をどう表せばよいかわからないほど感動したこと」を記述。心の交流があったことを思わせます。

ただし、恋愛感情があったかどうかについては、一次史料にはまったく証拠がないので想像に委ねるしかありません。

鳥籠に入った鶯(ウグイス)の贈り物と手紙は、ハーンの心を慰めた。

女性教育者として朝鮮半島に渡る

その後のよし子については、長く断片的な情報しかありません。

明治24(1891)年、父・安定が新潟県知事に就任。明治29(1896)年には滋賀県知事を再任されます。

明治30(1897)年には安定は貴族院議員に選出されました。しかし明治32(1899)年に安定は世を去ります。

この間、おそらくはよし子も安定に付いて赴任先に随行したと考えられます。

明治34(1901)年4月、よし子は長崎県士族・近藤範治(のりはる)と結婚。29歳での結婚は当時としては異例のものでした。

結婚後、よし子は夫とともに朝鮮半島の港町・元山(ウォンサン)へ渡ります。

ふたりはそこで 源興学校 という日本語学校を設立し、現地の人びとに日本語教育を行いました。

はじめはよし子自身が小さな塾を開き、日本語を教え始めたものです.その活動が広がり、夫婦で学校として整備していったと伝わります。

運営は日韓双方の官民有志から援助を受けながらのものでした。

女性が海外で教育機関の設立・運営に直接関わるのは、当時としてはかなり珍しいケースでした。

学校の表向きの責任者は夫の範治でしたが、実際には、授業や運営の中核をよし子(近藤淑子)が担っていたと伝えられています。

夫・範治が戦地に赴いているあいだも、彼女が学校を支え続けたという証言もあり、いわば「教育者であり経営者」としての側面が浮かび上がります。

よし子が目指した教育とはどのようなものだったのか(写真は東京女子高等学校)。

源興学校事件と、その後の消息

しかし、学校の運営が順風満帆だったわけではありません。

学校の評判が高まる一方で、日本政府側(現地副領事など)が運営に介入しようと画策。よし子がこれに強く反発した結果、「源興学校事件」と呼ばれる対立が生じました。

最終的には、学校は近藤夫妻の手を離れ、1900年代初頭には別の運営体制に移ってしまったとみられます。

その後、よし子夫妻がどこでどのように暮らしたのか、日本に戻ったのか、あるいは別の地で教育活動を続けたのか。

現在までのところ、一次史料に基づく確かな情報は見つかっていません。

ここから先は、想像を慎まなければなりません。

しかしよし子の生き方からは「明治の女性が歩みうる人生の幅広さ」を象徴しているように感じます。

朝ドラ「ばけばけ」に登場する江藤リヨは、フィクションとして脚色されていますが、その背後には、松江の知事令嬢・籠手田よし子(淑)の実際の人生が確かに存在します。

自由に生き、人々のために働き,名前を残した。籠手田(近藤)よし子の一生は、今も歴史の中で息づいています。

よし子は勉学だけでなく箏など芸事にも通じ、教養豊かな女性であった。

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