【豊臣兄弟!】に登場か?キャストは?豊臣秀長を支えるも非業の最期を遂げた武将・羽田正親の生涯
豊臣秀吉の弟として兄の天下獲りを支えた、豊臣秀長。2016年NHK大河ドラマ『豊臣兄弟!』では、秀長の生涯が描かれます。その献身的な奉公は、優秀な家臣団に支えがあって成し遂げられたものと言えます。
今回は秀長家臣団の中枢を担った三家老の一人・羽田正親(はねだ まさちか)を紹介。果たしてどんな人物で、どんな生涯をたどったのでしょうか。
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羽田正親は生年不詳、近江国蒲生郡上羽田村(かみはねだむら。滋賀県東近江市)の出身と言われています。
通称は六蔵(ろくぞう)。出自や若い頃の動向は定かでないものの、天正11年(1583年)に起こった賤ヶ岳の合戦時点では、秀長の部将として桑山重晴(くわやま しげはる)・浅野長政(あさの ながまさ)らと共に賤ヶ岳砦の守備を担当しました。
……賤ヶ嶽ノ城ハ、桑山修理亮、羽田長門守、浅野弥兵衛三人ヲ籠メ置カレ……
※『余吾庄合戦覚書』より。
重要拠点を任されていることから推測するに、正親は秀吉が近江長浜を治めるようになった天正元年(1573年)ごろから秀長に仕え、信頼と実績を重ねていたのでしょう。
天正13年(1585年)に秀長が紀伊国(和歌山県)を与えられると、正親は普請奉行の一人として藤堂高虎(とうどう たかとら)や横浜一庵(よこはま いちあん)らと共に和歌山城の築城を担当します。
同年に秀長が大和国(奈良県)を加増され、大和郡山城へ入ると、正親は大和国添下郡の小泉城(大和郡山市)と4万8千石の所領を与えられたのでした。
加えて正親は従五位下・長門守に叙され、天正16年(1588年)には宇陀松山城(宇陀市)へ移ります。
秀長の死後、秀次事件に連座
天正19年(1591年)1月22日に秀長が没すると養子となっていた豊臣秀保(ひでやす。秀長の甥)に仕え、その秀保が文禄4年(1595年)4月16日に没すると、豊臣秀次(ひでつぐ。秀保の兄)に仕えました。
※異説として、秀吉の直臣となりながら秀次を補佐していたとも言われます。
しかし秀次に仕えて間もない文禄4年(1595年)7月15日、秀次が謀叛の疑いをかけられて切腹。正親はその連座として越前国(福井県)へ追放され、現地で自害して果てたのでした。
介錯を務めたのは本多正氏(まさうじ。平四郎)。徳川家康の家臣でありながら、秀次に鞍替えしようと正親に仲立ちを依頼していたようです。
……故ありて豊臣秀次に仕むとして、其臣羽田長門守某とはかるといへども、いまだことならず。文禄四年秀次生害あり。これによりて八月二十四日長門守某殉死するのとき、正氏これを介錯して其身もまた自殺す。年二十六。
※『寛政重脩諸家譜』巻第694藤原氏(兼通流)本多(本多正氏)
正氏としては秀次に鞍替えしようとしていたことが明るみに出れば、もはや生き場所がないと判断して自害を選んだのでしょう。
正親に子供がいたのかは不明、その後羽田家は絶えてしまったようです。
羽田正親・基本データ 生没:生年不詳~文禄4年(1595年)8月24日没 出身:近江国蒲生郡上羽田村 出自:不詳 通称:六蔵 主君:不明(浅井氏?)→豊臣秀長→豊臣秀保→豊臣秀次(秀吉の直臣?) 官位:従五位下・長門守 居城:小泉城(奈良県大和郡山市)→宇陀松山城(奈良県宇陀市) 所領:4万8千石 家族:妻妾、子女いずれも不詳 死因:秀次事件の連座で処罰され、殉死(自害) 備考:秀長「三家老」の一人(役職や称号が実在したかは不詳)※三家老は羽田正親のほか横浜一庵と小川下野守。または桑山重晴とも言われます。
終わりに今回は秀長を支えた三家老の一人・羽田正親について、その生涯をたどってきました。
果たして令和8年(2026年)NHK大河ドラマ「豊臣兄弟!」では、どのような活躍が演じられるのでしょうか。
そもそも登場するのかどうか……登場するなら中盤以降、誰がキャスティングされるかも楽しみですね!
※参考文献:
阿部猛ら編『戦国人名事典 コンパクト版』新人物往来社、1990年8月 高柳光寿ら『戦国人名辞典 増訂版』吉川弘文館、1973年7月日本の文化と「今」をつなぐ - Japaaan

