幕末「松下村塾」の誤解── 吉田松陰は創設者でもなく、指導期間もわずか、塾生名簿すらなかった (3/3ページ)
伊藤博文は身分が低いために塾内には入らず、本人曰く「外で立ち聞きしていた」という感じだったようですし、山県有朋は「自分は軟弱な文学の士ではない」と入門を拒否したという話も残っています。
山県については、仮に入門していたとしても、松陰が入牢していた時期がかぶるので短い時期の接触しかなさそうです。
確実に吉田松陰と深い関係・交流があったのは、久坂玄瑞・吉田稔麿・入江九一・高杉晋作の四人くらいではないでしょうか。
アクティヴ・ラーニングの先駆ところで学習塾というと、学校の授業形態と同じ「対面式」という形式や、「個別指導型」という形式がありますね。
では、松下村塾はどのような形式だったのかというと、どちらでもありませんでした。
皆で集まって特定のテーマについて論じたり、みんなでハイキングに出かけたりと、現在で言うならばアクティヴ・ラーニングの先駆的な形式だったようです。
もともと吉田松陰自身が型破りな人物だったのはご存じの通りです。
例えば友人と会う約束をして、その期日に間に合うように出発するまでに藩の許可が出なかった、という理由だけで脱藩してしまったという逸話があります。
またペリーが二度目に来航したときには、小舟で接近して乗艦し、外国に連れて行けと要求。そしてそのことをわざわざ奉行所に自首して捕まってしまいました。
そんな人物が運営する学習塾ですから、従来型の塾になるわけはないことはすぐ想像できますね。
参考資料:
浮世博史『くつがえされた幕末維新史』2024年、さくら舎
画像:photoAC
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