徳川幕府、威信失墜の始まり「天保の改革」――水野忠邦の失策と薩摩・長州の成功を比較
権威低下を招いた「改革」
幕末期の、江戸幕府の衰退がどの時点から始まったと言えるかは諸説ありますが、有力な説のひとつが「天保の改革」がその原因だったとするものです。今回はこれについて解説します。
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寿司禁止!贅沢を許さない厳しすぎた「天保の改革」とは?現代の寿司との違いも紹介 なぜ?教科書ではもう享保・寛政・天保の改革を「三大改革」とは教えていない!見方が変わった江戸の政治史天保の飢饉やモリソン号打ち払い事件、頻発する百姓一揆、蛮社の獄など内外の諸問題が起きていた時期、これに対応するため首席老中に任命されたのが水野忠邦です。
彼が実践した改革が天保の改革で、これについては昔から教科書にも掲載されているので覚えている人も多いでしょう。
ただ、そもそもこの天保の改革はあくまでも幕府権力の再編強化であって、国内の諸問題を直接解決するようなものではありませんでした。あくまでも「享保」「寛政」の改革を手本にした政策だったのです。
彼は大名・大奥も含めて倹約令を出し、庶民の風俗を厳しく取り締まります。飢饉で荒廃した農村を復興するため農民の出稼ぎも禁じました。
しかし、生活と風俗への厳しい統制と、一向に回復しない不景気とが重なり、人々の改革に対する不満は高まっていきました。
そしてとどめの一撃となったのが、諸藩に領地替えを命じて実現できなかったという出来事です。
当時は、川越藩が、外国からの圧力に対応するために相模湾の防備強化を担当していました。
この川越藩の財政負担を軽減しようと、幕府は川越・庄内・長岡の3藩の領地を相互に入れ替えることを命じます。しかし激しい反対にあって実現できませんでした。このことが、幕府の権威を大いに損ねる結果になったのです。
「幕末思想」の萌芽この時期は海外情勢の動乱期でした。アヘン戦争が勃発したのです。
日本の外国船打払令が、列強の侵攻を誘発する口実となることをおそれた幕府は、打ち払いを緩和。新たに薪水給与令を発令しました。
また水野忠邦は、江戸・大坂周辺を直轄地とする上知令を出し、幕府の財政の強化を図ろうとしました。しかし周辺の大名・旗本の強い反発にあって実現できず失脚します。
これらの失敗は、さらなる幕府権力の衰退を世に知らしめる結果となりました。そこで世の中では、二つの考え方が生じてきます。
一つは、幕府の権力・権威の強化回復を図ろうとするもの。そしてもう一つが、幕府に代わる新しい権威として天皇と朝廷を押し立てようとするものです。
こうした思想が母体となって、幕末期には佐幕側・新政府側の勢力へとつながっていったのです。
改革に成功した諸藩現在では、「天保の改革」は水野忠邦がおこなった改革だけではなく、諸藩の改革も含めた大きな改革として説明されています。そうした諸藩の代表格が、薩摩藩です。
薩摩藩は、下級武士から登用された調所広郷が中心となって改革を進めました。
調所の改革の内容は徹底的な緊縮財政・借金の事実上の棚上げ・奄美大島の黒砂糖の専売、そして琉球王国との密貿易などなかなか急進的なものでした。
また長州藩では、薩摩と同様に村田清風がやはり藩の多額の借金を整理し、紙や蠟の専売を行います。さらに萩焼などの陶磁器の販売独占などによって利益を上げました。
薩摩・長州だけではなく、肥前や土佐、宇和島藩や越前藩でも改革が進みます。
各藩に共通した改革の方法は、借財の返済や特産品の専売、そして商人との結びつきを進めるというものでした。これに成功した藩が、後に幕末・明治の政局で発言力を持つようになったのです。
このように天保の改革については、それに失敗した幕府と、成功した諸藩、という対照的な形で説明するのが現在のスタンダードです。
参考資料:浮世博史『くつがえされた幕末維新史』2024年、さくら舎
画像:Wikipedia
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