『豊臣兄弟!』でどう描く?三家老・小川下野守はなぜ歴史から姿を消した?豊臣秀長を支えた生涯

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『豊臣兄弟!』でどう描く?三家老・小川下野守はなぜ歴史から姿を消した?豊臣秀長を支えた生涯

豊臣秀吉(藤吉郎)の弟として、天下獲りを献身的に支え続けた豊臣秀長(小一郎)。陰の実力者としての活躍が、多くの家臣たちによって支えられていたのは言うまでもありません。

今回は秀長を支えた三家老(横浜一庵・羽田正親・小川下野守)の一人である小川下野守(おがわ しもつけのかみ)を紹介。果たしてどんな人物で、どんな生涯をたどったのでしょうか。

※秀長の三家老:

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次々と主君を変え、秀長の家老に

小川下野守(イメージ)

小川下野守は生年不詳、元は近江国(滋賀県)北部の戦国大名・浅井長政に仕えていました。

下野守は通称(主君から名乗りを許された自称の官職)で、諱(いみな。実名)は兼高(かねたか。兼隆とも)とも言われます。ただしこの諱は『太閤記』など軍記物語にのみ登場し、当時の史料には存在しないことから、創作の可能性が否めません。

天正元年(1573年)に浅井家が滅亡すると織田家の武将・明智光秀に仕え、天正10年(1582年)に光秀が秀吉に滅ぼされると、羽柴秀長に仕えました。

秀長の与力として奉公を重ね、天正11年(1583年)に秀吉と柴田勝家を撃破した賤ヶ岳合戦の後、秀長の部将として織田信孝(信長三男)の守備する岐阜城を攻めます。

城攻めが続く4月25日の夜、小川下野守は城の近くに駆け寄り、大音声で城中へ呼ばわりました。

……城中の兵どもよく承れ、去る廿一日柴田権六を生捕り、今廿四日北ノ庄落城し討ち取ったり、今は誰を頼みに籠城せるや……

※『太閤記』より。

【意訳】お前たちの後ろ盾である柴田勝家は4月21日に生け捕られ、4月24日に本拠地である北ノ庄城も陥落した。もはやどこからも援軍は来ないぞ!

この呼びかけで城内は騒然となり、士気を大きく削がれてしまいます。もはやこれまでと信孝は降伏し、4月29日に自害して果てたのでした。

その後も秀長そして秀吉の天下獲りを下支えし、天正13年(1585年)閏8月に秀長が大和国(奈良県)を与えられると、三家老の一人に抜擢されたのです。

家老となった小川下野守は1万5千石(あるいは3万5千石)の知行を賜わり、また秀長の居城となった大和郡山城下の小川町(奈良県大和郡山市小川町)に屋敷を構えました。恐らく小川下野守が住んだことが地名の由来となったのでしょう。

小川下野守≒小川祐忠?

小川下野守≒小川祐忠?(イメージ)

まさに小川下野守の生涯におけるピークと言える時期ですが、不思議なことにここで彼は忽然と姿を消してしまいます。

討死したとか隠居したとか追放されたとか切腹を命じられたとか言った理由やその予兆もなく、まるで最初からそんな者はいなかったとばかりに。一体なぜでしょうか。

未だに謎のままとなっているのですが、歴史学者の本郷和人は小川下野守の正体は小川祐忠(すけただ)ではないかという説を提唱しています。

小川祐忠も小川下野守と同じ近江国の出身で、主君を浅井長政→織田信長→明智光秀→柴田勝豊(勝家の養子)→豊臣秀吉と変え、概ね小川下野守と似たような経歴をたどってきました。

小川下野守の存在や活動は軍記物語『太閤記』によるところが大きいため、もしかしたら小川下野守は小川祐忠をモデルに創作されたのかも知れませんね。あるいは同族だった可能性もあるでしょう。

終わりに

今回は豊臣秀長を支えた三家老の一人・小川下野守について、その生涯をたどって来ました。

人生のピークを迎えたところで忽然と姿を消す謎の武将でしたが、果たして令和8年(2026年)NHK大河ドラマ「豊臣兄弟!」では、どのように描かれるのでしょうか。

本作では秀長家中のみならず、他にも多くの戦国武将が登場するはずなので、改めて紹介していきたいと思います。

※参考文献:

大和タイムス社 編『改訂 新しい大和の歴史』大和タイムス社、1973年1月 本郷和人『豊臣の兄弟 秀吉にとって秀長とは何か』河出新書、2025年10月

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