日本史初の“女性切腹”——将軍・足利義政の乳母から罪人へ…今参局の栄光と悲劇的な最期

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日本史初の“女性切腹”——将軍・足利義政の乳母から罪人へ…今参局の栄光と悲劇的な最期

室町時代に活躍した女性・今参局(いままいりのつぼね)は、室町幕府八代将軍足利義政の乳母として知られています。

室町幕府八代将軍・足利義政/Wikipediaより

また、日本史で始めて切腹をした女性としても知られています。将軍の乳母でありながら、日本史史上初の切腹をした女性、それだけで壮絶な人生を歩んだことがうかがえますが、実際どのような生涯だったのでしょうか。

今回は今参局の生涯を紹介し、切腹の理由を紐解いていきます。

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将軍家と密接な関わりがある一族の生まれ

室町幕府三代将軍・足利義満/Wikipediaより

今参局は応永11年(1404)に大館満冬の娘として生まれたとされています。通称としてお今と呼ばれていたようですが、本名は残念ながら不明。

父は足利義満から偏諱を受けていることから、足利政権では信頼が厚かったことがうかがえます。

なぜ、そこまで信頼が厚かったのかというと、大館氏は新田氏の重臣として仕える新田氏一門の一族でしたが、大館義冬が室町幕府に仕え治部少輔に任命されたことがきっかけとなっています。

そこから将軍の親衛隊である5ヶ番衆の第5番衆の番頭を代々務めるようになりました。そのような経緯もあったことから、今参局も足利義政の乳母に就任できたと考えられています。

義政の乳母という揺るがない地位を確立した今参局は、義政が室町幕府八代将軍に就任すると、次第に幕政へ深く関与するようになります。

その影響力の大きさから、いつしか義政の寵臣である烏丸資任(からすまる-すけとう)・有馬元家(ありま-もといえ)と共に三魔と呼ばれるようになりました。

三魔としての権力を振るい、幕政に関与

細川勝元/Wikipediaより

三魔とは、義政の治世初期に幕政に大きく関わった側近たちの総称で、「いままいり」「からすまる」「ありま」の3名いずれの名前にもまの音が含まれていることが、その呼称の由来とされています。

三魔として絶大な発言力を持った今参局は、宝徳2年(1450)に起きた尾張国の守護代人事において、一度解任された織田郷広を再度守護代に任命するよう義政に進言します。

この進言は管領・細川勝元の反対に加え、義政の生母・日野重子が嵯峨に出奔するという強い抗議も重なり、結果として受理されませんでした。とはいえ、この一件から今参局が自身の意見で義政が直接動くほどの強い影響力を持っていたことがうかがえます。

日野重子との政争に敗北し、切腹

沖ノ島/Wikipediaより

そんな中、今参局の権威は長禄3年(1459)1月に起きたある出来事をきっかけに崩れ去ります。それは、義政の正室である日野富子の子が生まれて間もなくして亡くなってしまったことです。

この不幸な出来事に対し、世間では今参局の呪いによって、富子の子が殺されたとの噂が広まり始めました。この噂に重子や以前から今参局に反感を抱いていた守護大名たちが便乗し、追い込まれていきます。

その結果、今参局は琵琶湖の沖ノ島へ流罪とされました。そして、護送中に重子が放った刺客に襲撃されるも、重子に殺されるならばと自らで命を絶った方がましと考えたのか、切腹して命を絶ちました。

この一連の事件によって、今参局は不利な状況に追い込まれた末に無念の最後を遂げた人物として同情の目を向ける者も少なくなかったそうです。

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■参考文献:

本郷和人『夜に読みたくない かなしい日本史 運命に泣いた歴史人物』JTBパブリッシング、2025年

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