幕末の人斬り・岡田以蔵のイメージに潜む多くの誤解——創作が歪めた史実とのギャップを解説【前編】
「人斬り以蔵」
歴史上の人物、特に幕末のような激動の時代を生きた人々は、後世の創作によって本来の姿とはかけ離れたイメージが定着してしまうことがあります。
土佐藩出身で、幕末四大人斬りのうちの一人とされる「人斬り以蔵」こと岡田以蔵も、そうした人物の一人と言えるでしょう。
一八三〇年代の末に生まれたとされる彼は、ドラマや小説の中で、時には純粋な暗殺者、またある時には悲劇の主人公として、善悪両方の側面から描かれてきました。
今回は前編・後編に分けて、後世に創作された彼のイメージと実際の人間像との違いについて解説します。
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土佐藩では、関ヶ原の戦い以前からの領主であった長宗我部家の家臣たちが「下士」、徳川方として新しく入国した山内家の家臣たちが「上士」として区別されていました。
郷士は、その下士の中でも最も上に位置づけられるとされており、よく農民と武士の中間にあたる下層武士と説明されがちです。
しかし、実際には農業経営で財をなした裕福な者も多く、その実態は多様でした。郷士はれっきとした武士階級だったのです。
さらに土佐藩には「白札」という制度があり、功績を認められれば下士から上士へと取り立てられる道も開かれていました。
司馬遼太郎の作品などで描かれるような、絶対的で越えられない身分差というのは、やや誇張された見方だったと言えます。
誤解の始まりそこで岡田以蔵の家柄ですが、小説などでは足軽の家に生まれた貧しい青年として描かれることが多いですが、これは誤りです。
彼の父は一八四〇年代に外国船の来航に備えるための海岸防備の役目を務め、その後、城下での居住を許されています。
これは、郷士の中でも比較的順調に出世した家柄であったことを示しています。
以蔵自身は、土佐勤王党を率いた武市半平太の道場で剣術を学びましたが、師である武市もまた、白札制度によって郷士から上士になった人物です。
さて一八六二年、以蔵は参勤交代の行列に加わる武士として選ばれ、京都へ上ります。ここから、いわゆる「人斬り以蔵」の物語が始まりました。
しかしこの、「人斬り以蔵」というイメージも実像とはかなり異なっています。
彼が尊王攘夷派の過激な活動である「天誅」に関わったことは事実です。実際、京都町奉行所の役人襲撃や、幕府のスパイと見なされた人物の殺害に関与したとされています。
ですが、田中新兵衛らと並んで幕末四大人斬りと呼ばれるのは、後世の創作物の中で生まれた呼称であり、当時の史料にそのような言葉は見当たりません。
「剣の腕だけが取り柄で、無差別に暗殺を繰り返した怪物」というイメージは、真山青果の戯曲や、先ほども名前が出た司馬遼太郎の小説によって作られたフィクションです。
【後編】ではさらに、岡田以蔵というキャラクターにまつわる複数のイメージとその誤解について解きほぐしていきましょう。
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画像:photoAC,Wikipedia
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