「明治維新=近代の始まり」は古い常識——“近代日本”はペリー来航時すでに始まっていた!
「明治維新=日本近代のスタート」ではない
私たちの大まかな歴史のイメージでは、江戸時代に革命的な政治運動(明治維新)が起きて、明治新政府が立ち上げられたことで日本の政治は近代的なものに一新されたというのが根強いです。
しかし最近では、近代日本の始まりを、明治維新からではなくペリー来航からだと考える歴史観が、今の研究では主流になりつつあります。
つまり、江戸時代の政治体制は明治時代に完全否定されて生まれ変わったわけではなく、両者の間には強い連続性があるということです。
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実際、明治政府は、幕府が積み上げてきた制度や政策を多く受け継ぎ、その上に新しい改革を加えていきました。
幕府は19世紀前半から、国内の矛盾と外国の圧力という大きな危機に直面していました。この危機を解決しようとする中で、幕府はすでに近代化に向けた準備を進めていたのです。
主導権争いがメイン日本史の時代区分も、こうした連続性を反映して変わってきています。小中学校では縄文・弥生・古墳・飛鳥など細かな時代名を学びますが、高校では原始・古代・中世・近世・近代・現代と大きく分けます。
これについて、昔は「近代=明治維新から」とされていました。
しかし現在の歴史学では、近代の始まりをペリー来航、つまり1853年の黒船来航に置くようになっています。ついでに言えば、最近では中世の始まりの時期についても院政期からとする見方が主流です。
『春日権現験記』より白河上皇の御幸(Wikipediaより)
ペリー来航は、日本が国際社会に本格的に巻き込まれた転換点でした。ここからいわゆる日本の夜明けが始まったと考えることができます。
幕末の政治対立は、単なる保守対革新の争いではありません。幕府も薩長を中心とする勢力も、目指していたのは近代国家の建設でした。
違いは改革の方向性ではなく、近代化をどう進めるか、その主導権を誰が握るか、という争いだったのです。
誰が新秩序をもたらすか江戸幕府は、長い間「無事の世」と「民百姓の安住」を実現した政権でした。戦乱が終わり、庶民が安定して暮らせる社会を作り上げたのです。
しかし19世紀に入り、この二つの柱が揺らぎ始めました。外国船の来航、天保の飢饉、国内の階級矛盾、さらには開国後の経済混乱です。
大名や庶民は、「誰が再び安定をもたらしてくれるのか」を真剣に考え始めました。この模索が、幕末から明治初期の激しい政治的混乱を生んだ背景となっているのです。
このようにペリー来航を近代の出発点に置くと、歴史の流れがより自然に見えてきます。
幕府は開国後の対応として、軍備の強化・洋学の導入・条約改正への準備などを進めていました。明治政府は、これらの基盤を引き継ぎながら、より速く大胆な改革を実行したのです。
維新は突然の革命ではなく、幕末から続く近代化の延長線上にあったと言えます。
こうした視点から見ると、幕末は「旧体制の崩壊」ではなく、幕府と新政府が、敵対しながらも同じ目標に向かっていく「近代化に向けた主導権争い」だったことがわかります。
この連続性を理解することで、日本の近代史はより立体的に、深く理解できるでしょう。ペリーの黒船は、単なる衝撃ではなく、日本が自ら近代国家への道を歩み始める合図となったのです。
参考資料:
浮世博史『くつがえされた幕末維新史』2024年、さくら舎
画像:photoAC,Wikipedia
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