庶民の味方“遠山の金さん”は悪名高き「天保の改革」執行者!幕府衰退の遠因となった悪政の実態
天保の改革は、老中・水野忠邦が主導した幕府の財政再建策です。この改革は、幕府の危機を救うはずでしたが、結果として失敗に終わり、庶民の生活を苦しめ、幕末への道筋を敷くことになりました。
徳川幕府、威信失墜の始まり「天保の改革」――水野忠邦の失策と薩摩・長州の成功を比較改革の柱は4つです。
①倹約令
②株仲間の解散
③商人の自由取引容認
④人返しの法
これらはすべて、幕府の財政を立て直し、社会の秩序を取り戻すことを目指すものでした。しかし、実際には庶民に大きな負担をかける結果になったのは皆さんもご存じの通りです。
まず倹約令は、衣食住から娯楽まで細かく規制しました。贅沢を禁じ、派手な着物や豪華な食事、遊びを抑え込んだのです。
風俗取締りも厳しく、人気作家の為永春水はこうした取り締まりで手鎖50日の処罰を受け、苦しみの末に亡くなったとされています。
彼の取り調べを担ったのは遠山景元。庶民のヒーローである遠山の金さんとして知られる人物です。
しかしこの人、実際には庶民の味方どころか、庶民の風俗を取り締まって改革を支える役人の立場でした。
金さんのシンボルである入れ墨も、有名な「桜吹雪」ではなかったフシがあります。明治二十六年に初演された『遠山桜天保日記』という脚本によると、「腕に生首が文をくはえたるぼかしの彫物」とあるのです。
これが史実なのかは不明ですが、少なくとも明治二十六年の時点では、遠山景元という人物は生首の入れ墨をするような禍々しいキャラクターとして扱われていたことが分かりますね。
娯楽や文化への締め付けは、江戸の活気を奪いました。改革前には200軒以上あった寄席が、わずか15軒に減ったほどです。また、歌舞伎小屋も浅草方面へ強制移転させられました。
ただこれは、庶民に寄り添い芝居小屋の継続を望んだ、遠山景元の苦肉の施策だったとも考えられます。
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さらに人返しの法は、江戸に出稼ぎに来ていた農民を強制的に故郷へ帰すものでした。
しかし、そもそも彼らは貧困ゆえに江戸へ出稼ぎに来ていたのであり、彼を帰農させても何の意味もありませんし、帰農は不可能だったのです。
結果、江戸周辺には無宿人や浪人・博徒が増え、治安が悪化しました。幕府は関八州取締役を増員して対応しようとしましたが、追いつきませんでした。
株仲間の解散も大きな失敗です。水野忠邦は、物価高騰の原因を株仲間による流通の独占だと考えて株仲間を解散させ、新興商人の自由取引を認めました。
しかし、実際の物資不足の主因は別でした。長州藩の越荷方のように、諸藩が産地から大坂へ届く前に商品を買い占め、独自の流通網を作っていたのです。
株仲間を解散しても、この流れは止まりませんでした。むしろ流通が混乱し、物価はさらに上がりました。
統治能力の限界そしてこの改革の裏では、西国諸藩の台頭が目立ってきていました。
薩摩藩・長州藩・肥前藩などは、特産品の専売や産地直取引を進め、財政を強化していきます。
一方、幕府の商業政策は失敗を重ね、経済的な主導権を失っていきました。
この構図は、天保期からすでにでき上がっていました。幕府の衰退と諸藩の成長は、明治維新の土台を築いていたのです。
天保の改革は、短期的には失敗です。庶民の生活を圧迫し、政策も的外れで、幕府の威信を損ないました。
しかし、その過程で幕府の統治能力の限界がはっきりしました。諸藩の経済力が伸び、幕府が追いつけなくなった現実が浮き彫りになったのです。
水野忠邦の改革は、結果として幕末の政治構造を変える伏線となりました。失敗した改革が、実は明治維新への地ならしへとつながっていったと言えるでしょう。
参考資料:浮世博史『くつがえされた幕末維新史』2024年、さくら舎
画像:photoAC,Wikipedia
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