日本に初上陸したアメリカ人はペリーではなかった!誤解されている鎖国下の日本と外国の交流をまとめて解説
最初に「訪日」したアメリカ人は?
日本史が好きな人でも、多くは「日本に最初に来航したアメリカ人は誰か」と問われたら、いわゆる黒船来航で有名なマシュー・カルブレイス・ペリーだと答えるのではないでしょうか。
幕末のペリー黒船来航の本当の狙い…アメリカは日本の「3つの港」を中継地にしたかった!モリソン号事件のことを挙げる人もいるかも知れませんが、モリソン号は奉行所や薩摩藩から砲撃を受けており、ペリーのように日本に上陸してはいません。
実は、注目すべきもうひとつの出来事がありました。ペリー来航より遡ること62年前、アメリカの商人ジョン・ケンドリックが率いるレディ・ワシントン号とグレイス号の2隻が、和歌山県串本町の紀伊大島に寄港しました。
この寄港は悪天候を理由に避難した形でしたが、住民とは水の補給などでやり取りがありました。船にはラッコの毛皮が積まれており、もともと日本との交易が目的だったそうです。
彼らは毛皮の交易を試みたものの、当時の日本では毛皮に価値がなく、交渉は成立しませんでした。11日間ほど滞在した後、船は去っています。
ごく最近の2016年にグレイス号の航海日誌が発見され、寄港地が雷公の浜であったことがはっきりしています。
現在、串本町にはこの出来事を記念する日米修交記念館が建てられ、JR串本駅前にはレディ・ワシントン号のブロンズ像が置かれています。
こうした記録から、日本とアメリカの最初の接触は決して軍事的なものではなく、交易を求める穏やかな出会いだったことがわかります。
出島から出ることは可能だった一方で、鎖国下の外国人の扱いについても、よくある誤解があります。
教科書ではよく「オランダ人は出島でのみ貿易を許された」と書かれますが、これは出島から一歩も出られなかったという意味ではありません。
実際には、オランダ商館長は手続きを踏めば出島の外に出ることが可能で、長崎の祭り「長崎くんち」を見物するのも許可されていたという記録が残っています。
特に商館長は、4年に1度は江戸へ参府し、将軍に謁見する大規模な旅をしていたそうです。
この江戸参府は往復で約2ヶ月、江戸滞在が1ヶ月ほど続き、商館長は年間の4分の1近くを出島の外で過ごしたことになります。
この参府の一行は150人を超える大行列で、江戸日本橋の薬種問屋・長崎屋に滞在したことから江戸の出島と呼ばれていたとか。
外国人には慣れていたこの江戸の出島こと長崎屋には、杉田玄白や前野良沢などの蘭学者も訪れ、学術交流が盛んに行われました。
さらに葛飾北斎も前述のオランダ商館長から浮世絵の注文を受け、今もオランダやフランスの美術館に所蔵されている作品が多く存在します。
北斎の『画本東都遊』にある「長崎屋図」に、江戸の庶民が珍しそうにオランダ人を見物する様子が描かれているのに気付いた人も少なくないでしょう。
こうした交流の歴史を見ると、黒船来航時に江戸の庶民が驚いたのは、自分たちと見た目が違う外国人そのものではなくむしろ、軍艦の威容に対してだった可能性が高いです。
日本と外国の接触はペリー以前から始まっており、江戸の庶民は外国人そのものにはすでに慣れていたのです。
そして鎖国は完全な閉鎖ではなく、限定的ながらも交流の窓口が存在していたのです。
参考資料:浮世博史『くつがえされた幕末維新史』2024年、さくら舎
画像:photoAC,Wikipedia
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