『豊臣兄弟!』で注目の舞台──超重要、天下統一の契機「中国大返し〜山崎の合戦」の真相に迫る【前編】
2026年1月4日(土)、NHK大河ドラマが新たな幕を開けました。豊臣秀吉とその弟・秀長の生涯を軸に、彼らを取り巻く人々の波乱と魅力を描く『豊臣兄弟!』がスタートしました。
本稿では、物語の舞台となった“歴史の息づく地”を実際に訪ね、その背景と魅力をたどる企画をお届けします。
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2026年大河『豊臣兄弟!』で注目の舞台──豊臣秀吉・秀長の主君・織田信長が築いた安土城とは?【前編】 2026年大河『豊臣兄弟!』で注目の舞台──「本能寺の変」豊臣秀吉・秀長が天下に羽ばたくきっかけに【前編】今回は、豊臣兄弟が天下統一へと大きく羽ばたく契機となった「中国大返し」と「山崎の合戦」に注目。[前編][後編]の2回に分け、その真相に迫ります。
[前編]ではまず、「中国大返し」および「山崎の合戦」の歴史的概要を紹介していきましょう。
信長の死を知ると躊躇なく京都に軍勢を返す
織田信長・信忠父子を葬った明智光秀は、畿内における要衝である長浜城・佐和山城を攻略、近江を平定し、織田政権の中枢・安土城を占拠します。
また、京都を押さえると朝廷から勅使を迎え、避けることができない織田諸将との戦いに備えるため勢力の安定を図ったのです。
そして、細川藤孝(幽斎)・忠興父子、筒井順慶など姻戚関係にある麾下の諸将たちを味方に付けるべく交渉を行いますが、光秀に合力する将はいませんでした。
下剋上が当たり前に思われる戦国時代においても、身分的な秩序は大切にされていたため、主君を討った光秀は謀反人と見なされたのです。
その頃、備中高松城を水攻めにして孤立させた羽柴(豊臣)秀吉に対し、毛利家は講和を申し込みますが、秀吉は備中・美作・伯耆・備後・出雲の割譲と高松城主・清水宗治の切腹という厳しい条件を突きつけました。
赤松之城水責之図/東京都立中央図書館所蔵(Wikipedia)
しかし、光秀から毛利家へ送った信長滅亡を知らせる密使を捕らえた秀吉は、自らがとんでもない窮地に立たされてことを悟ります。
信長の死を毛利家が知れば、すぐさま秀吉に決戦を挑んでくるに違いありません。それどころか明智勢から背後を襲われ、毛利勢との挟み撃ちになる可能性すら高かったのです。
秀吉はとっさの判断で、清水宗治の切腹を条件に講和を果たします。そして諸説ありますが、秀長に殿を命じ、躊躇なく軍勢を京都に向けてとって返しました。これが歴史上に名高い秀吉の「中国大返し」でした。
160kmの距離をわずか5日で移動する驚異の大返し光秀にとって、何よりも誤算だったのは、秀吉のあまりにも素早い動きでした。備中高松城の包囲を解いた秀吉は、2万5千の軍を率い、6月6日の午後に高松を発つと、約12キロメートルを移動し、その日の夜には備中沼城に到着して一夜を明かします。
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「本能寺の変」後、豊臣秀吉が驚異的なスピードで行軍したという“中国大返し”ができた理由翌7日の早朝に沼城を発つと、一昼夜をかけて55キロメートルを進み、8日の朝には姫路城に入りました。軍勢はここで一日休息を取ったのち、9日の朝に出発。さらに一気に80キロメートルを走破し、11日の朝には尼崎城に到着したのです。
中国大返しの途中、尼崎で軍議を行う羽柴秀吉。太平記之内山崎合戦競先鋒図/歌川貞秀作
約160キロメートルをわずか5日あまりで移動するというこの行軍は、光秀にとって到底予想できるものではありませんでした。いや、光秀のみならず、当時であれば誰しも驚愕したことでしょう。
この秀吉による「中国大返し」が、なぜ可能であったのかについては、古くからさまざまな説が唱えられてきました。
その一つが、重い甲冑や武具は船に積んで海路で姫路へ運び、軍勢は身軽な姿で山陽道を疾駆したという説です。
しかし近年、城郭考古学者の千田嘉博氏(奈良大学教授)は、「大返し」の途上で秀吉軍が休憩・宿泊した地点には、中国攻めにおける信長の親征を想定して、あらかじめ御座所(ござどころ)が整備され、兵糧も備蓄されていたと推測しています。
秀吉は、もともと信長のために用意していたこれらの御座所を、2万を超える将兵のために転用。これこそが、「中国大返し」を支えた大きな要因であったという見方です。
そして、この「大返し」の途中で、秀吉はさまざまな手を打っています。その一つが、畿内の諸将に対して「信長公は本能寺を脱出して無事である」という虚偽の情報を流したことでした。信長が生きているかぎり、誰も光秀に味方することはできない、という心理を突く狙いがあったのです。
また畿内の諸将は、畿内方面軍の司令官であった光秀の与力でもありました。秀吉はこの噂を流すと同時に書状を送り、逆に自らの陣営へ引き入れることに成功します。さらに秀吉は、四国征伐のため畿内に待機していた信長の三男・織田信孝の遠征軍も手中に収めました。
山崎の合戦に勝利し歴史の主役に躍り出るこのような動きによって、12日には秀吉軍は4万を超える大軍へと膨れ上がり、京都へと迫ります。一方、光秀は兵力の増強が思うように進まず、1万7千の兵で山崎(大山崎)へ向かわざるを得ない状況にありました。
山崎は、京都と大坂を結ぶ西国街道沿いに位置し、大軍を展開しにくい狭隘な地形です。光秀は、この地形であれば数に勝る秀吉軍に対しても勝機があると判断したのです。
そして13日の夕方、合戦の幕は明智軍の攻撃によって切って落とされました。しかし、その前面に立ちはだかったのは、秀吉の味方に加わった中川清秀・高山右近らの摂津衆でした。
彼らはもともと光秀麾下の武将たちであり、畿内に留まっていたため、「中国大返し」で急遽引き返してきた秀吉本隊と比べると、はるかに休養が十分でした。明智軍はこの摂津衆を切り崩すことができず、数に勝る秀吉軍によって押し込まれていきます。
そして、この流れを止めることができなかった明智軍は、ついに総崩れとなりました。光秀は再起を図るべく、居城である坂本城へ向かいます。しかし、途中の山科小栗栖において、落ち武者狩りを行っていた農民の手によって重傷を負い、ついに自刃して果ててしまいました。
山崎の合戦に敗れ敗走する明智光秀。太平記屋間埼大合戦之図/歌川芳虎作
この「山崎の合戦」を契機として、豊臣秀吉と秀長は、一気に歴史の主役へと躍り出ることになるのです。
それでは[前編]はここまで。[後編]では、決戦の地である山崎を訪ね、「山崎の合戦」を身近に感じてみましょう。
◎参考文献
高野晃彰(京あゆみ研究会)著 『京都ぶらり歴史探訪ガイド 今昔ウォーキング』メイツユニバーサルコンテンツ刊
日本の文化と「今」をつなぐ - Japaaan


