幕末、徳川慶喜が戦意喪失し夜逃げ…は嘘!「鳥羽・伏見の戦い」で撤退した本当の経緯と真意
「逃亡」のイメージ
鳥羽・伏見の戦いは1868年に始まり、圧倒的に優勢であったはずの旧幕府軍が敗退しています。
ナメていた旧幕府軍…幕末の「鳥羽・伏見の戦い」で新政府軍が圧倒的戦力の旧幕府軍に勝利した理由【前編】この理由について、朝敵認定されることを恐れた徳川慶喜には戦意が無く、逃げ出してしまったことで軍が総崩れになってしまったからだとよく説明されますね。
こうした経緯は小説やテレビで何度も描かれてきました。ですが、こうしたフィクション作品のイメージと、実際の経緯は少し違うようです。
まず、一つ言えることは慶喜は新政府と戦うつもりはなかったということです。
意味が分からないと思うかも知れませんが、事実です。彼が敵認定していたのは薩摩藩のみでした。
薩摩藩は王政復古の大号令を画策し、小御所会議で辞官納地の要求をする形で慶喜を陥れた形になっていたからです。
慶喜は言わば私戦を挑んだわけで、そのことは薩摩討伐を表明し、その罪を明示列挙した弾劾、いわゆる討薩表を出した点によく表れています。
つまり、最初から逃げ腰だったとは考えられないのです。
ところが、旧幕府軍は初日から薩長連合の新式銃に押され、六日目には敗走兵が大坂城へどっと集まってきます。
さらに、津藩や淀藩が寝返るという痛手が重なって味方が減り、敵が増えたことで戦況は一気に不利になりました。
そこで生まれたのが、小説やドラマなどでよく描かれる、慶喜が家臣を振り切って夜半に大坂城を脱出するというシーンです。
撤退した経緯そういうフィクション作品では、老中や若年寄たちが猛反対するにもかかわらず「幕府に西郷や大久保のような者がおるというのか」と声を荒らげ、軍艦・開陽丸に乗船して江戸に逃亡するのが常です。
船で大坂を脱出する慶喜を描いた錦絵(Wikipediaより)
ところが、渋沢栄一が編んだ『昔夢会筆記』の「大坂城御引上げの時の事」を読むと、当時の様子はかなり違っていたようなのです。
まず、撤退を勧めたのは会津藩の軍事奉行添役・神保長輝でした。どうしようもない状況なので、ひとまず江戸に戻り冷静に善後策を考えましょう、と彼は提言しました。
若年寄の永井尚志もこれに賛成しています。慶喜はさらに諸隊長を集めて意見を聞き、老中の板倉勝静と永井と相談したうえで引き上げを決めたのです。
この記録からは、今までのイメージである「ひとりで敵前逃亡する形で逃げた」というのが事実だったのかどうか、怪しく感じられますね。
撤退後もやる気を見せるここで鳥羽・伏見の戦いから退いて江戸へ戻ったあとの慶喜の行動を見てみましょう。実は、彼は
大坂城を脱出し、江戸城に帰還した後、津田真道に「集議所」の設立を諮り、1月下旬に西周に立憲政治の研究を命じ、津田真道や加藤弘之たちを参加させました。
ちなみに加藤弘之は、幕臣であり開成所の教授職であり、立憲政体を提唱した人物です。
さらに、銃砍・弾薬を大量に集め、この時点で江戸の軍備は大坂城の頃を上回る規模に拡張されていました。
当時の外国紙「ノース・チャイナ・ヘラルド」は「戦う気がないのなら、これらの動きは矛盾している」と記事にしています。
客観的に見ても、慶喜はこの時点で戦意を失ってはいなかったという証拠です。
このように、彼は江戸に戻ってからも「大君体制」樹立の計画を進めていたのです。
戦いについても、体勢を立て直して薩長と決戦し、新しい政府をつくる意思があったのでしょう。
では、なぜ最終的に恭順を選んだのか。それは、その後の諸藩の動向や、新政府の東征軍の編制などを鑑みての判断だったのでしょう。
少なくとも彼が戦意を失い、新政府樹立を明治政府に委ねることを決断したのは、江戸へ戻った後のことだったのです。
慶喜は戦意を失って逃亡したのではありません。順序が逆で、もともとは戦術的な必要性から撤退し、その後で最後の最後に戦略的に政権委譲を選んだのです。
おそらく「慶喜逃亡」というイメージは、新政府が旧政権を否定するために作られた作り話だったのでしょう。
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