大河【豊臣兄弟!】無刀で敵3人を討つ!織田信長「六人衆」の強者・伊東長久の武勇伝
織田信長(小栗旬)の身辺を警護するため、武勇に優れた「六人衆」が抜擢されました。
浅野長勝(宮川一朗太) 太田牛一(おおた ぎゅういち/うしかつ) 堀田孫七(ほった まごしち) 伊東清蔵(いとう せいぞう) 城戸小左衛門(加治将樹) 堀田左内(さない)上三人が弓の名手、下三人が槍の名手です。これで遠近どちらも護れますね。
今回はそんな信長「六人衆」の一人、伊東清蔵こと伊東長久(ながひさ)を紹介。果たしてどんな人物だったのでしょうか。
※同じく六人衆・城戸小左衛門について:
『豊臣兄弟!』あれは不穏な伏線!?藤吉郎に容赦ない稽古をつけた城戸小左衛門の正体と今後の展開 信長の赤母衣衆(親衛隊)に
伊東長久は天文2年(1533年)、伊東祐元(すけもと。若狭守)の次男として誕生しました。兄に伊東武兵衛(ぶへゑ)がいます。
元服してはじめ伊東祐之(すけゆき)または伊東祐久(すけひさ)と称し、のち信長から長の偏諱を賜り、伊東長久と改名しました。
通称は清蔵、また七蔵(しちぞう)と呼ばれることもあります。
やがて川崎氏の娘を娶り、伊東長実(ながざね)や女子(平野道茂室)などを授かりました。
早くから信長に仕えており、槍の名手として評価されたのは先ほど紹介したとおりです。
天文21年(1552年)の萱津合戦(三本木村合戦)では、兜をかぶる暇さえ惜しいと編笠を引っ掛けて大立ち回りを演じました。そのため信長から「編笠清蔵」とあだ名されます。
やがて永禄年間(1558〜1570年)に信長の親衛隊である赤母衣衆(あかほろしゅう)に抜擢され、その後も武功を重ねました。
秀吉の部隊に配属
天正元年(1573年)の小谷城攻めでは羽柴秀吉(藤吉郎。池松壮亮)の部隊に配属され、ここでも大いに奮闘したのです。
あまりの奮闘ゆえか、気づくと刀も脇差もなくなっており、敵のまっただ中でさぞ困ったことでしょう。
しかしここで諦める長久ではありません。何と彼は無刀で敵を3人も討ち取り、しかも生還しているのです。一体どうやって敵を討ち取ったのでしょうか。
一、敵の武器を奪った?
一、そこら辺にある石ころや木の枝で攻撃?
一、まさか素手で殴り殺した?
どんな状況にあっても生き延びる、根っからの戦さ人だったようです。
この活躍が評価され、以後秀吉の配下として活躍。黄母衣衆(腰母衣衆)に選抜され、後に旗奉行を務めました。
秀吉時代の続き
やがて信長が本能寺で横死を遂げ、織田政権の乗っ取り抗争においても、長久は活躍します。
天正12年(1584年)の小牧合戦では秀吉本陣の護衛する小姓組七手の合計四千の軍勢を指揮しました。
【小姓組七将】
尼子六郎左衛門(あまご ろくろうざゑもん) 池田与左衛門(いけだ よざゑもん) 伊東長久 佐久間忠兵衛(さくま ちゅうべゑ) 佐藤主計頭(さとう かずえのかみ) 速水守久(はやみ もりひさ) 真野助宗(まの すけむね)この頃になると、さすがに最前線で槍を奮うことはなくなり、一軍の将として采配を振るっていたことでしょう。
続く天正13年(1585年)にも佐々成政を討伐するべく越中国へ遠征します。しかしその途上、金沢または小松の地で病死してしまいました。
享年53歳。まだまだ戦いたかったでしょうに、志半ばに世を去った無念が偲ばれます。
伊東長久・基本データ 生没:天文2年(1533年)生~天正13年(1585年)8月没(享年53歳) 両親:父親 伊東祐元(若狭守) 兄弟:伊東武兵衛、伊東長久 妻妾:川崎氏 子女:伊東長実、女子(平野道茂室) 通称:清蔵、七蔵 改名:祐之→祐久→長久 異名:編笠清蔵(信長が命名) 戒名:善真 主君:織田信長→豊臣秀吉 役職:六人衆・赤母衣衆(信長時代)→黄母衣衆・旗奉行・小姓組(秀吉時代) 終わりに今回は織田信長と豊臣秀吉に仕えて武勇を奮った「六人衆」の一人・伊東長久について、その生涯をたどってきました。
かなり癖が強そうな人物ですが、周囲との人間関係がどうだったかなども気になりますね。
果たしてこの伊東長久はNHK大河ドラマ「豊臣兄弟!」に登場するのか、登場するなら誰がキャスティングされるのかも気になるところです。
※参考文献:
高柳光寿ら『戦国人名辞典』吉川弘文館、1981年10月 谷口克広ら監修『織田信長家臣人名辞典』吉川弘文館、1995年1月日本の文化と「今」をつなぐ - Japaaan
