“甲賀忍者”の読みは「こうが」じゃない!正式な読みと伝説の忍者集団の正体と起源を解説
「こうが」ではなく…
皆さんは、甲賀忍者というのを聞いたことがあるでしょう。滋賀県の甲賀郡を中心に活躍した忍者集団のことです。
※関連記事:
忍者の最強条件=無名であること!貴重な忍術史料『万川集海』が説く上忍・中忍・下忍の違い 戦国時代、忍者が本当に使っていた「忍び六具」とは?派手さゼロなのに恐ろしく実戦的なリアル装備この甲賀郡は、現在の滋賀県甲賀市・湖南市にあたり、甲賀市が誕生したのは2004年、5つの町が合併したときのことでした。
誤解が多いので先に答えを示しておくと、甲賀の正式な読み方は「こうが」ではなく「こうか」です。
今でも「こうがなのか、こうかなのか」と役場に問い合わせがくるそうですが、8世紀のはじめの木簡に甲可郡と書かれていることから、読みとしては「こうか」が正統です。
甲賀市のスタンスとしては「親しまれている“こうが忍者”を否定はしないが、正式には“か”です」というものだとか。
ちなみに、ご当地商品に甲賀コーラがありますが、これも読み方の“こうか”を前面に出しています。
「甲賀(こうか)忍者」の起源
この甲賀郡の甲賀忍者は、同じく忍者の里として有名な伊賀と隣接する地域で生まれました。
ほかの忍者集団とちがう甲賀の特徴は、領主とゆるやかな主従関係を保ちながら、半独立の勢力として自治を行った点にあります。
戦国時代の甲賀では惣という自治組織が発達していました。
親族単位の同名中惣から郡全体の甲賀郡中惣まで階層的に組織され、話しあいで物事を決めるシステムがしっかり確立されていたのです。
この団結力が、外部の勢力に飲み込まれずに独立性を保つ基盤となったのでしょう。
甲賀郡には大小200ほどの陣地が存在しました。これは城というよりは、丘の上に土塁と館を備えた構造で、1辺50〜100mの正方形の丘に高さ3mの土塁をめぐらせ、攻め落としにくくなっていました。
周囲に同じような陣地が点在していたので、敵は主力の位置を特定しにくいという利点もあったようです。
また甲賀の山々には薬草が多く、薬僧の多賀坊や朝熊坊の系統が薬と山岳信仰を広めていました。
もともと甲賀忍者の起源は修験道にあり、飯道山で修行した山伏や落ち武者が地侍集団を形成したことにはじまります。それが山岳信仰とも深くつながったのでしょう。
山伏は全国をめぐるため、甲賀忍者は情報収集に優れており、他国に潜入するときも山伏に扮して疑われにくかったようです。
その後の甲賀忍者1487年の長享・延徳の乱では六角家とともに戦い、亀六ノ法などのゲリラ戦で活躍しました。特に功績を挙げた21家は甲賀二十一家として後の中心勢力となります。
六角家が滅亡した後はかの織田信長に仕え、のちに秀吉・家康へと主を変えました。
伏見城の戦いでは1,800名が籠城し奮戦。家康はその忠義を高く評価し、甲賀百人衆を編成して江戸城の鉄砲隊に任命しました。
彼らの活躍はその後もまだまだ続きます。1637年の島原の乱では甲賀忍者300名が参陣を志願し、10名が諜報任務に就きました。これが甲賀忍者の歴史上、最後の大規模な実戦となりました。
甲賀の読み「こうか」は古代の豪族・鹿深氏に由来するとされています。
今でも、甲賀地域には油日神社や飯道山など忍者ゆかりの地が多く、2017年には伊賀・甲賀が「日本遺産」に認定され、リアル忍者文化の発信地として現在も親しまれています。
武士の身分を取り戻せ!明治維新の戦場を駆け抜けた甲賀忍者たちの武勇伝【上】日本の文化と「今」をつなぐ - Japaaan


