【豊臣兄弟!】ドラマの信長像を決定づけた男…貴重な史料『信長公記』の著者・太田牛一は何者なのか (2/3ページ)
永禄8年(1565)の堂洞城(美濃中部)攻めでは、百発百中で敵に矢を命中させたというエピソードも。信長の身辺を警護する武勇に優れた「六人衆」のうちの一人としても知られています。
※参考記事:
『豊臣兄弟!』あれは不穏な伏線!?藤吉郎に容赦ない稽古をつけた六人衆・城戸小左衛門の正体その後、官僚のような役割にシフトしていきます。
本能寺の変の後は丹羽長秀、豊臣秀吉に仕える本能寺の変で信長が亡くなったあとは、信長の家臣・丹羽長秀に仕えました。
【豊臣兄弟!】地味だが最強の名臣・丹羽長秀!織田信長が手放さなかった3つの理由天正13年(1585年)に長秀が亡くなったあとについては、「丹羽長秀の子・丹羽長重に仕えていた説」「加賀松任で蟄居していた説」などさまざまな説があり、はっきりとしていません。
しかし、その後豊臣秀吉に召し出され、彼に仕えることに。行政官僚として、寺社行政や検地などに携わりました。秀吉が亡くなると、豊臣秀頼に仕えましたが、隠居し、「信長公記」や「大かうさまくんきのうち」などを執筆していきます。
「信長公記」が特に優れているとされるのは、その緻密さ・正確さです。全部で15巻あり、1巻が1年を扱っています。

