『豊臣兄弟!』信長は何を恐れた?清洲を離れ小牧山城へ移った理由と「ある武将」の存在

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『豊臣兄弟!』信長は何を恐れた?清洲を離れ小牧山城へ移った理由と「ある武将」の存在

NHK大河ドラマ『豊臣兄弟!』第5話「嘘から出た実」では、織田信長(演:小栗旬)が清洲城から居城を移した小牧山城が舞台となりました。清洲から小牧山への移転は、単なる城替えではなく、信長が美濃攻略を経て、「天下布武」へと歩み出す大きな転換点でもあったのです。

なぜ信長は、尾張統一の拠点とした清洲城を離れ、わざわざ小牧山に新たな城を築いたのでしょうか。

その背景には、美濃を治める斎藤氏との緊張関係、そして信長が強く警戒していたある武将の存在がありました。

ドラマでは語られないもう一つの物語。小牧山城築城と移転に秘められた真相を、ひもといていきましょう。

※第5話「嘘から出た実」の解説と考察は下記の記事を参照。

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小牧山城本丸の石垣(こまき市民文化財団)

信長の美濃侵攻を阻んだ斎藤・武田の軍事同盟

1561年(永禄4年)5月、父・斎藤道三を討って美濃国主となっていた斎藤義龍(演:DAIGO)が、33歳という若さで急死します。その後を継いだのは嫡子の龍興(演:濱田龍臣)でしたが、まだ15歳という若年であったため、美濃の政情は不安定さを増していきました

斎藤龍興。NHK大河「豊臣兄弟!」公式サイトより

信長はこの好機を捉え、美濃攻略を目指して西濃へと兵を進めていきます。ところが翌年2月には講和が成立し、清洲城へと引き揚げることになりました。

「機を見るに敏」と評される信長ですが、なぜ早々に和睦を結び、本国へ戻ったのでしょうか。

そこには、大きく分けて二つの理由があったと考えられます。

一つは、尾張をほぼ統一したとはいえ、犬山城には織田信清という敵対勢力が残り、さらに一向宗も勢力を拡大しつつあったことです。まずは尾張の完全掌握を優先すべきだと、信長は判断したのでしょう。

犬山城(Wikipedia)

そしてもう一つは、あまり知られていませんが、斎藤龍興と武田信玄の間で軍事同盟が結ばれていたことです。この同盟の背後には、義龍の時代に冷遇されていた斎藤家重臣・長井道利と、禅僧・快川紹喜の働きがあったと伝えられています。

つまり信長は、下手に美濃へ深入りすれば、斎藤氏と武田氏、さらには尾張の抵抗勢力に包囲されかねない状況に置かれていたのです。

尾張統一と美濃攻略のために築かれた城

1562年(永禄5年)から1563年(永禄6年)にかけて、尾張と美濃の関係は比較的穏やかに推移していました。この間、信長は犬山城を攻略して織田信清を追放し、ついに尾張統一を成し遂げます。さらにその先、美濃を奪取するための長期的な戦略を着実に描いていきました。

その象徴ともいえるのが、1563年(永禄6年)に着手された小牧山城の築城です。もちろん、この城が犬山城攻略を大きな目的としていたことは間違いありません。しかし、犬山を落とせば次は美濃へ、その流れは誰の目にも明らかだったことでしょう。

長良川から見た稲葉山城の全景(Wikipedia)

ところが、稲葉山城にいる龍興とその側近たちは、つかの間の平穏に気が緩んでいたように見えます。武田信玄との同盟関係に安心していた面もあったのかもしれませんが、信長への備えは次第に薄れていきました。

そんな中で起こったのが、菩提山城主・竹中重治(半兵衛/演:菅田将暉)と、北方城主・安藤伊賀守(守就)による稲葉山城占拠事件です。斎藤家の将来を憂えた二人は、実力行使によって龍興を諫めようと行動に出たのでした。

信長は重治に対し、稲葉山城を明け渡すよう求めますが、重治はこれに応じません。そしておよそ半年後、城は再び龍興の手に戻されます。小牧山城は、まさにこうした時代背景の中で築かれた城だったのです。

清洲にかわる新たな本拠地であった小牧山城

『豊臣兄弟!』第5話の舞台となった小牧山城は、信長が「火車輪城(ひぐるまわじょう)」と名付けたと伝えられています。

その縄張りを見ると、円形の小丘陵を取り囲むように、火を振り回したかのような同心円状の帯曲輪がめぐらされていることが分かります。この形状は完全な円郭式ではないものの、どの方角から攻められても対応できる、当時としては画期的な構造でした。

さらに発掘調査によって、南西中央には一直線に伸びる登山道(大手道)が存在していたことも明らかになっています。これは、後に築かれる安土城と共通する特徴でもあります。

山頂には巨石を用いて三段に築かれた石垣があり、その上の本丸には信長と妻子たちが暮らす天守風の建物が構えられていたと考えられています。

小牧山城復元図(こまき市民文化財団)

また、清洲城からの移転にともない、家臣たちの居宅も移され、山麓南側には城下町が整備されました。その規模は南北約1.3キロメートル、東西約1キロメートルにおよび、碁盤目状に道路が通されていたことが分かっています。

城下町の内部には短冊形の地割が施され、区画の境には下水設備まで備えられていました。発掘調査からは、当時としては非常に先進的な都市インフラを持つ町であったとされます。

これらの事実は、小牧山城が単なる犬山城や美濃攻略の前線基地ではなく、清洲に代わる新たな本拠地として構想されていたことを物語っているのです。

斎藤方の手強さを痛感していた信長

小牧山城は、円形を意識した革新的な縄張りと、計画的に整えられた城下町を併せ持つ、まさに信長の「新たな本拠地」構想を象徴する存在でした。そこには、美濃攻略を一時の戦いではなく、腰を据えて取り組む長期戦として見据えた、信長の覚悟と戦略が色濃く表れています。

1563年(永禄6年)、小牧山城へと本拠を移した時点で、信長の胸中には「美濃は容易には落ちない。だからこそ、じっくりと攻め取る」という思いがあったのです。

大沢次郎左衛門。NHK大河「豊臣兄弟!」公式サイトより

『豊臣兄弟!』第5話では、小牧山城での午前試合の後、鵜沼城主・大沢次郎左衛門(演:松尾諭)と秀吉・小一郎との間で、緊迫した空気の中、寝返りをめぐる交渉が描かれます。

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信長は、犬山城を落とした前後に丹羽長秀(演:池田鉄洋)へ命じ、鵜沼城から北東に約14キロメートル離れた加治田城主・佐藤右近右衛門の調略を進めていました。

その後、約半年をかけて加治田城、鵜沼城、猿啄城(さるばみじょう)、堂洞城(どうぼらじょう)など、木曽川沿いに点在する斎藤方の城郭を次々と攻略していきます。

ところが、堂洞城を落としたその日、龍興が自ら三千の兵を率いて来襲。信長は鵜沼城に秀吉軍を残し、小牧山城へと退くことになります。斎藤氏の本拠・稲葉山城に迫りながらも、決して無理に押し切らなかったのは、やはり斎藤方の手強さを強く感じていたからでしょう。

斎藤義龍。NHK大河「豊臣兄弟!」公式サイトより

そして、美濃をそこまでの強敵と意識させた背景には、龍興の父・義龍の存在が大きく影を落としていたと考えられます。

義龍が信長に与えた強烈な印象は、その死後もなお、信長の胸に深く刻まれ続けていたのでしょう。

その義龍については、信長にとって真の強敵であった理由に焦点を当て、別稿にてアナザーストーリーとして人物像や戦いぶりを掘り下げていきたいと思います。

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