「恋愛心中」では終われない太宰治の最期…自死の決定打になった“最後の一押し”とは

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「恋愛心中」では終われない太宰治の最期…自死の決定打になった“最後の一押し”とは

太宰治の不倫模様

昭和25年6月13日、太宰治山崎富栄が玉川上水で亡くなったという知らせは日本に大きな衝撃を与えました。

当時の太宰は人気作家でしたが、愛人に迫られて断り切れず、優柔不断が原因で心中したという説が広く語られました。

しかし、残された記録をたどると、この説明だけでは不十分であることが見えてきます。

太宰治(Wikipediaより)

戦後の太宰は『斜陽』の成功で一気に売れっ子となり、仕事量は急増しました。

ところが人気作家としてのストレスに耐えられず、酒・タバコ・薬を濫用し、持病の肺結核は悪化。喀血を繰り返すほどの状態に追い込まれていました。

彼が生き続けること自体が難しいと感じていた可能性は高く、心中の主導権が太宰側にあったと考えるのは自然なことでしょう。

富栄との関係も、単純な恋愛ではありません。

二人が出会ったのは1947年3月。太宰は「死ぬ気で恋愛してみないか」と告げ、関係が始まったといいます。

しかし太宰には正妻・美知子がいて、さらに『斜陽』の素材を得るために接近した太田静子という愛人もいました。

富栄の願いと太宰の拒絶

さて、富栄は静子の妊娠を知ると強いライバル心を抱き、「自分も太宰の子を産みたい」と願うようになります。

しかしこの年の6月24日の富栄の日記では、「一緒に死のう」と持ちかける太宰に、彼女が「もう少し頑張って」と返すやり取りが記録されています。

一方の太宰は正妻以外との子どもを望まず、「これ以上子ができたら首括りだ」と語っていました。

富栄が泣きながら抗議しても、太宰は軽くあしらったといいます。

山崎富栄(Wikipediaより)

それでも富栄は諦めておらず、心中の一か月前まで、日記に「どうしても子供を産みたい。欲しい。きっと産んでみせる。貴方と私の子供を」と、まるで太宰の小説のような文体で繰り返し書いていました。それだけ精神的な一体感が強かったのでしょう。

そして1948年6月、二人は赤い紐で身体を結んで玉川上水へ向かいました。富栄の願いは母になることであり、死を望む理由は見当たりません。

こうした状況を見ていくと、厭世的な気分になって死を望んでいたのは太宰の方だったと考えるのは自然なことでしょう。

太宰を追い詰めた“最後の一押し”

さて、では心中の主導権が太宰にあったとして、その最後の一押しになった原因は何だったのでしょうか。彼を最終的に入水に追いやったのが富栄でないとすれば、それは誰だったのでしょう。

その答えは、おそらく税務署の職員です。

太宰の妻・津島美知子の回想録によると、1948年2月末、太宰の家に武蔵野税務署から通知が届き、前年所得21万円に対し11万7千円の所得税が課されることが告げられています。

ちなみに同時の11万円は、現在の価値で換算すると1,100万円ほどです。

確定申告というシステムがスタートしたのはこの前年のことで、これを太宰は知らなかったか、あるいは見て見ぬふりをしていました。経費計上もしていなかったため、収入のほぼ全額が課税対象となったのです。

太宰は原稿料や印税を全部自分で管理していたのです。「管理」と言ってもその大半は妻に内緒で酒・タバコ・薬に使い果たして、美知子に泣きながら「もうお金がない」と漏らしたそうです。

さらに決定的なのは、太宰の死の直前に税務署職員が富栄宅を訪れ、太宰と二人きりで話したという事実です。

立川市内を流れる玉川上水(Wikipediaより)

その直後に入水が起きていることから、税務署からの圧力が太宰の精神を限界まで追い詰めた可能性は高いといえます。

こうして全体を見渡すと、太宰治の死は単なる恋愛心中ではなく、健康悪化、精神疲弊、複雑な女性関係、そして税務署からの巨額請求という複数の要因が重なった末の悲劇だったと読み取れます。

太宰治の最期は文学的なロマンではなく、現実の重圧に押しつぶされた人間の姿そのものでした。

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参考資料:
堀江宏樹『日本史 不適切にもほどがある話』三笠書房、2024年

画像:Wikipedia

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