『豊臣兄弟!』父・道三を討ち“親殺し”の烙印…信長が恐れた英傑・斎藤義龍(DAIGO) 再評価すべき生涯

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『豊臣兄弟!』父・道三を討ち“親殺し”の烙印…信長が恐れた英傑・斎藤義龍(DAIGO) 再評価すべき生涯

NHK大河ドラマ『豊臣兄弟!』第5話「嘘から出た実」では、織田信長(演:小栗旬)が清洲城から移転した小牧山城が舞台となりました。

この居城の移転は犬山城を攻略し、尾張統一を成し遂げるための布石であると同時に、その先にある美濃国攻略を見据えた戦略的転換でもありました。

なぜ信長は、このタイミングで本拠を移したのか。そこには、美濃国を支配する斎藤氏との緊張関係、そして信長が強く警戒していた“ある武将”の存在がありました。

その武将こそ、斎藤道三(演:麿赤兒)の嫡子・斎藤義龍(演:DAIGO)です。

※重要解説:信長が本拠を移した理由

『豊臣兄弟!』信長は何を恐れた?清洲を離れ小牧山城へ移った理由と「ある武将」の存在

ドラマでは第1話に登場したのみで、その後は大きく取り上げられていません。劇中では、斎藤龍興(演:濱田龍臣)の父として名が語られる程度で、存在感は決して大きいとはいえないでしょう。

しかし、史実を紐解けば、その評価は一変します。義龍は単なる「道三の子」でも、「龍興の父」でもありません。その実力は織田信長をして最大級に警戒させたほどのものだったのです。

今回は日本の歴史上、最も再評価されるべき一人であり、戦国史において異彩を放った斎藤義龍の実像に迫ります。

斎藤義龍。NHK大河「豊臣兄弟!」公式Xより

斎藤義龍は信長が最も恐れた男の一人だった

斎藤義龍は、1529年(享禄2年)、斎藤道三の嫡子として誕生しました。
そして1554年(天文23年)、隠居した道三と対立。ついに1556年(弘治2年)4月、長良川の戦いで父を討ち、美濃国主となります。

斎藤道三像 (常在寺蔵)東京大学史料編纂所による模写(Wikipedia)

この出来事によって、義龍には「親殺し」という強烈な烙印が押されました。儒教的倫理観が色濃く残る時代にあって、それは後世の評価を大きく左右する要因となったのです。

下剋上が横行した戦国時代とはいえ、「父殺し」は最大級のタブーでした。では、なぜ義龍は実父と刃を交えるに至ったのでしょうか。

道三を滅ぼした義龍の親殺し。その真の理由とは

義龍による「父殺し」の理由については、古くからさまざまな説が語られてきました。

・義龍の母とされる深芳野(みよしの)は、道三の側室となった時点ですでに土岐頼芸の子を身籠っており、義龍は頼芸の子だったという説。
・道三は義龍を愚か者とみなし、弟の孫四郎・喜平次らを寵愛して廃嫡を企てたという説。
・義龍は自らの実父を頼芸だと信じ、追放された頼芸の仇を討つために道三を討ったという説。
・道三が濃姫(帰蝶)の婿・織田信長の器量を高く評価し、「我が子(義龍)は、いずれ信長の門前に馬をつなぐ家来になる」と語ったという逸話。

いずれも広く知られた説ですが、決定的な史料は存在せず、真相はいまだ定かではありません。

ただ一つ注目すべきは、義龍が一時期「范可(はんか)」と名乗ったことです。范可とは、中国・唐代にやむを得ず父を討った人物の名とされます。

この改名は、義龍がすでに「父との戦いは避けられない」と覚悟を固めていたことを示すものとも考えられます。すなわち、私怨ではなく「国のための決断」であると、家臣や国衆に示そうとしたのではないでしょうか。

稲葉山城(岐阜城)復興天守と岐阜城資料館(Wikipedia)

当時の道三は、家臣団との関係が必ずしも盤石ではなく、領国経営にも不安が生じていたとみられています。実際、斎藤家中のみならず、美濃国内の有力国衆の多くが、次第に義龍へと傾いていきました。

その結果は、長良川の戦いで如実に表れます。義龍が約17,000の兵を集めたのに対し、道三の兵は約2,500。兵力差は歴然としていました。

それでも道三は退きませんでした。劣勢を承知のうえで野戦に打って出たその姿には、「討たれるならば正々堂々と」という道三らしい矜持が感じられます。

また、戦いの前夜、道三は信長に「美濃一国を譲る」との書状を送ったとも伝えられます。しかし、この信長宛書状の原本は現存しておらず、史実かどうかは判然としません。

道三にとって美濃は、父・長井新左衛門尉(西村勘九郎・松波庄五郎)とともに二代にわたる苦闘の末に手に入れた国でした。それを内紛によって失うことは、決して本意ではなかったはずです。

岐阜市指定史跡・道三塚(Wikipedia)

長良川での父子対決は、単なる「親殺し」ではなく、戦国という時代の苛烈な権力闘争が生んだ悲劇だったのかもしれません。

単なる下剋上で終わらなかった男・斎藤義龍

道三を討ち、美濃国主となった義龍は、すぐさま兵を動かし、道三に味方していた諸将の平定に乗り出しました。その結果、恵那郡を除く美濃のほぼ全域を掌握します。

さらに、統一を進めつつあった織田信長の尾張にも圧力を加え、木曽川以北の葉栗郡などを支配下に置きました。その攻勢は、美濃国内にとどまるものではなかったのです。

斎藤義龍像/常在寺蔵(Wikipedia)

一方で義龍は、内政の立て直しにも着手します。日根野弘就・竹越尚光・日比野清実・長井衛安・桑原直元・安藤守就の六名に連署状を出させ、政務を分担させました。これは家中の結束を図り、統治体制を安定させるための布石だったといえるでしょう。

さらに1557年(弘治2年)9月までに、それまで名乗っていた「范可(はんか)」を「高政(たかまさ)」へと改名します。この改名は、道三の影を振り払い、新たな美濃国主として歩み出す決意表明でもありました。

義龍存命中、信長が美濃に踏み込めなかった理由

斎藤義龍と織田信長は、濃姫を介して義理の兄弟という関係にありました。しかし、義龍が道三を討ったことで、両者は完全に敵対します。

織田信長。NHK大河「豊臣兄弟!」公式サイトより

美濃はまだ不安定。そう考えれば、信長がこの機に乗じて侵攻しても不思議ではありません。

ところが、信長は義龍の存命中、美濃へ本格侵攻していないのです。いや、より正確にいえば「できなかった」のです。

なぜ信長は動けなかったのか。その理由こそ、義龍という武将の実力を物語っています。

代表的な要因として、次の点が挙げられます。

・信長と不仲とされる弟・織田信行や庶兄・織田信広への調略。さらには犬山城主織田信清との同盟など、対信長工作を展開。
・浅井氏・六角氏と縁戚関係を結び、周辺勢力との連携を強化する。
・将軍・足利義輝に認められ、相伴衆に列せられる。
・左京大夫に任じられ、「一色」の名跡を継承。旧守護・土岐氏を上回る格式を獲得。
・国内の所領整理(貫高制の推進)を進め、統治基盤を固める。

つまり義龍は、外交・軍事・中央権威の獲得・内政改革を同時並行で進めていたのです。

矢継ぎ早に打ち出される施策と実行力。その総合力があったからこそ、信長は美濃へ決定的な一手を打つことができなかった

義龍は、単なる「父殺しの梟雄」ではありません。信長を足止めした、紛れもない実力者だったのです。

義龍の死がもたらした運命の分岐点

信長を寄せ付けなかった斎藤義龍は、1561年(永禄4年)11月、33歳という若さで突然この世を去りました。死因は病と伝えられますが、詳しいことはわかっていません。

その前年の1560年(永禄3年)4月には次男・菊千代が早世し、さらに7月にはその母である正室・一条氏も病没。相次ぐ不幸に見舞われた直後の、義龍の急死でした。

織田信長。NHK大河「豊臣兄弟!」公式サイトより

しかし、この死は織田信長にとって決定的な転機となります。「最大の壁」が、突如として消えたのです。

義龍死去からわずか2日後、信長は木曽川を越えて美濃へ侵攻。防衛にあたった日比野清実・長井衛安が討ち死にするなど、斎藤方は痛手を被りました。

家督を継いだのは、わずか15歳の嫡子・龍興。ここから信長は一気に美濃攻略を加速させ、やがて稲葉山城陥落へと至ります。

龍興はしばしば「無能」と評されます。確かに父・義龍と比べれば、政治力・軍事力ともに見劣りしたのは否めません。しかし、その実像は「龍興が劣っていた」というよりも、「義龍があまりにも優秀だった」と見るべきでしょう。

斎藤龍興。NHK大河「豊臣兄弟!」公式サイトより

義龍時代の美濃は、まさに彼一代の力量でまとめ上げられた政権でした。強力な求心力を持つワンマン的な君主の死は、そのまま体制の揺らぎを意味します。

歴史に「もし」は禁物です。それでも、もし義龍があと10年生きていたなら、信長の天下取りは、まったく異なる形を取っていた可能性も否定できないでしょう。

信長が最も警戒した男・斎藤義龍。その早すぎる死こそが、やがて「豊臣の時代」へとつながる歴史の歯車を、大きく動かしたのです。

※参考文献
横山住雄著 『斎藤道三と義龍・龍興』戎光詳出版

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