常軌を逸した“子作りへの執着”…江戸時代の俳人・小林一茶の壮絶な老年期と最期
五十路の春
俳人として知られる小林一茶は、文化十三年の正月に「こんな身も拾ふ神ありて花の春」と詠んでいます。
五十路を迎えてようやく故郷に戻り、そして結婚し、父の遺産も相続した時期でした。長い貧困から解放されて世間並みの暮らしが手に入ったという実感が、この一句から読み取れます。
この頃の一茶は、人生で初めてといってよいほどの安定感がありました。
なにより妻の菊は妊娠中で、四月には第一子が生まれる予定でした。跡取りを切望していた一茶にとって、これほど希望に満ちた正月はなかったはずです。
しかし、身体の状態はすでに老いの色が濃く、歯はすべて抜けて何をしゃべっているのか不明瞭。病弱で、原因不明の皮膚病にも悩まされていました(これは梅毒だったとも言われています)。
それでも日記には、この時期から「交合」という言葉が頻繁に登場します。妊娠安定期の妻に対して昼夜を問わずセックスを求め続けたというのです。
ちょっと常軌を逸していますね。生命の危機に対する不安を解消しようとしていたのでしょうか。
そして四月十四日にはめでたく第一子・千太郎が誕生しますが、わずか半月後に死亡。一茶自身の体調も急激に悪化し、秋には全身に強いかゆみをともなう皮膚病が広がりました。
それでも翌年になると、一茶は再び跡取りを求めて性交を重ね、日記には「夜五交合」「三交」などの記録が並びます。やっぱり常軌を逸していますね。
その執念たるや、自ら山に入り、強精作用のある薬草を採ってくるほどでした。
再婚・離縁・またセックス一茶の子どもはその後もどんどん生まれたのですが、なぜかどの子もすぐに亡くなりました。文政二年には第二子・さとが、文政四年には第三子・石太郎が、文政六年には第四子・金三郎が死去しています。
とくに第三子は、菊が背中におぶっている間に絶命しており、一茶は「お前が窒息死させた」と妻を責めたといいます。
九年間で四度の妊娠出産を経験した菊は、ついに亡くなりました。
すると六十二歳の一茶はすぐに武家出身の雪と再婚しますが、半年で離縁しています。この頃の一茶は脳梗塞を繰り返し、半身不随で言語障害も進んでいました。
さらに村を襲った大火で、新築したばかりの家も焼失。一茶の生活は急激に困窮し、老年期は坂を転げ落ちるように厳しさを増していきます。
それでも一茶は妻と子を求め続け、文政九年にはやおという幼い子連れの女性が世話係としてあてがわれました。
一茶は彼女と朽ちかけた土蔵で暮らします。世話係と言っても単あるヘルパーではなく、一茶は彼女ともまた性交を続けました。
彼らが過ごしたのは、夏にはホタルが見えるほど隙間だらけの建物だったといわれており、信州の冬をどう凌いだのかは想像がつきません。
第三章 孤立の果てに迎えた突然の最期一茶の老年期をさらに厳しくしたのは、家族との断絶でした。
彼はもともと十五歳で江戸に奉公に出てから三十歳過ぎまで実家に寄りつかず、父の死後には遺産の半分と二百二十坪の土地を奉行所に訴えて強引に分割させています。
その際、一茶は義母を冷淡な人物として描き、自分だけが父を看病したかのような記録を提出しました。
しかし実際には家族に頼りきりで、遺産だけを奪った形になっていたのです。こうした経緯があって異母弟たちとの関係は最悪で、老後に支援を受けられる状況ではなかったのです。
文政九年に一茶はやおと結婚しますが、その翌年の11月19日に突然死します。俳人でありながら辞世の句も残しておらず、急死だったことが分かりますね。享年65歳。
しかしどうやら、死の直前までセックスは続けていたようです。一茶の死から半年後、やおは女児を出産しました。名はやた。
それまで生まれるたびに亡くなっていた一茶の子たちのうち、不思議とこの娘だけは健康に育ちました。
小林一茶は、生涯求め続けた“家族”がようやく手に入りかけた矢先に亡くなったのです。
壮絶な老年期と突然の最期。その背景には、執念と孤独が入り混じった一茶の姿がありました。その作風とは裏腹に、晩年の現実はあまりにも過酷なものだったのです。
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画像:Wikipedia,photoAC
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