どうした秀吉?『豊臣兄弟!』藤吉郎が踏んだ豊臣崩壊ルート…戦国時代、最終局面の誤算とは

Japaaan

どうした秀吉?『豊臣兄弟!』藤吉郎が踏んだ豊臣崩壊ルート…戦国時代、最終局面の誤算とは

豊臣秀吉という人物に対する一般的な評価といえば、「旺盛な才覚の持ち主」という言葉に集約されるのではないでしょうか。

人間味あふれる親しみやすさで周囲を惹きつけ、ときに圧倒的な存在感で場を掌握する。そんな稀有なカリスマを備えた人物でした。

現在放送中の大河ドラマ『豊臣兄弟!』でも、機転が利き、人心掌握に長け、行動力あふれる野心家として描かれています。まさに、その才覚を存分に発揮して戦国乱世を駆け上がり、ついには天下統一を成し遂げた英雄といえるでしょう。

ところが……。
その秀吉を武家として見るとき、どこか決定的に欠けているものがあったのではないか、と思えてならないのです。

戦国を問わず、武家にとって何よりも重んじられたのは「家」という概念でした。それは単なる家族ではなく、自らの死後も末永く存続していく“家の繁栄”への強い願いです。子孫へと続く血脈を守り抜くことこそが、武士の本懐でもありました。

だからこそ彼らは、命を賭して戦場に立ち、武功を求めたのです。もちろん秀吉も、その競争の只中を生き抜き、天下人にまで上り詰めました。しかし、その歩みを振り返ると、どこか「家」というものへの執着が希薄だったようにも見えてきます。

今回は、秀吉が生前に行った三つの出来事に焦点を当て、それがいかにして豊臣の「家」が滅亡する遠因となったのかを、あらためて考えてみたいと思います。

豊臣秀吉(Wikipediaより)

読み返すたびに疑問が生じる「秀吉の御遺言」

一つ、内府(徳川家康)殿に対しては、太閤様も、長い間その律儀な人柄であるのを知っていられ、近年になって親しくされた。そうして、秀頼様を家康の孫千姫の婿になされたのだから、その孫婿の秀頼様を取り立てて頂きたいと、大納言(前田利家)殿と年寄五人のいる所で、度々仰せになったことである。

一つ、大納言(前田利家)殿は、幼な友達の頃から律儀な人柄であることを知っていられるので、特に秀頼様の御守役に附けられたのだから、お取り立て頂きたいものだと、内府(家康)殿と年寄五人がいる所で、度々仰せになった。

一つ、備前中納言(宇喜多秀家)殿は、幼少の時から太閤様がお取立てなされたのだから、秀頼様のことは放っておけない義理がある。御奉行五人(五大老のこと)にもなり、またおとな五人(五人の年寄)へも交わられて、政務万端、重々しく、依怙贔屓なしに尽力してほしいと仰せになった。

一つ、(上杉)景勝と(毛利)輝元は、律儀な人柄だから、秀頼様のことを取立てて頂きたいと、輝元には直々仰せられた。景勝は領国にいるので、皆々に云い渡された。

以上が、十一ヶ条にわたる「秀吉の御遺言」とされるものの一部です。これを読み返すたびに、筆者は正直なところ、どこか呆れにも似た思いを抱いてしまいます。

率直にいえば、「どうした、秀吉?」という気持ちです。死を前にして語られた言葉とはいえ、いったい何を思ってのことだったのか、と考え込まずにはいられません。

62年の生涯のなかで、豊臣家の行く末について、もっと周到に備えることはできなかったのでしょうか。

いや、そればかりか、結果としてその将来を危うくする道を、自ら選んでしまったのではなかったか……。

そんな思いが、どうしても胸に浮かんでくるのです。

それではここから、豊臣家滅亡の遠因となったとも考えられる、秀吉の三つの判断について、あらためて見つめ直していきたいと思います。

「どうした秀吉?」その1.豊臣秀次切腹事件

秀吉から関白職を譲られた甥の豊臣秀次は、1595年(文禄4年)6月末、謀反の疑いをかけられ、高野山で自刃しました。いわゆる「豊臣秀次切腹事件」です。

この事件の真相については、当時から江戸時代にかけてさまざまな説が語られてきました。淀殿との間に秀頼が誕生したことで秀次が障害になったとする「排除説」、秀次が「畜生関白」と呼ばれるほどの非道を重ねていたとする「暴君説」、さらには秀次が無実を訴えるため、秀吉の意向に従わず自ら命を絶ったとする「無罪説」などです。

豊臣秀次。太平記英勇伝九十九・落合芳幾作(Wikipedia)

しかし史実として確認できるのは、秀次が自害した後、秀吉がその一族をことごとく処断し、さらに秀吉に古くから仕えてきた秀次与力の大名たちにまで粛清の手を広げた、という事実です。

無実ゆえの切腹!?妻子ら30余人が公開処刑、謎に包まれた戦国武将・豊臣秀次の切腹の真相

もし仮に、将来において秀頼が豊臣家を継ぐにあたり、秀次の存在が脅威になり得ると秀吉が判断し、そのために秀次と妻子を皆殺しにしたのだとすれば、それはやはり「どうした秀吉?」と問いかけたくなります。

殺された秀次の男子は4名いたと伝えられています。当時は幼児の死亡率も高く、秀頼が無事に成長する保証は決してありませんでした。かつて石松丸や鶴松を幼くして失った秀吉であれば、その現実を痛いほど理解していたはずです。

秀次の男子たちは、ただでさえ一族不足の豊臣家にとって、きわめて貴重な血筋でもありました。また、秀頼が成人するまで秀次が関白として政権を支えていれば、豊臣家の基盤はいっそう強固になり、豊臣家の存続可能性も高まっていたと考えられます。

そのように考えると、秀次という存在は、豊臣政権の実情からすれば、絶対に失ってはならない人物だったのです。

「どうした秀吉?」その2.家康の関東国替え

戦国乱世を統一した豊臣秀吉といえども、豊臣の天下を脅かしかねない有力大名は少なくありませんでした。その中でも、自らの死後、最大の脅威となり得るのが徳川家康であることを、秀吉は十分に認識していたはずです。

それにもかかわらず、家康に対する処遇は余りにも寛大に過ぎたのではないか、そんな思いも浮かびます。

徳川家康(Wikipediaより)

たとえば1590年(天正18年)、天下統一を決定づけた北条氏政・北条氏直征伐ののち、150万石に満たなかった家康の所領を関東へと国替えし、250万石へと大幅に加増しました。

この結果、家康の動員兵力は従来のおよそ4万から、7万5千を超える規模へと膨らみます。秀吉が北条征伐に際して動員した兵力が約20万であったことを思えば、自らの命による国替えで家康に7万を超える軍事力を与えたことは、やはり失敗であったといえるでしょう。

もしそこに十分な警戒がなかったとすれば、これもまた「どうした秀吉?」と感じてしまうのも無理はありません。

さらに朝鮮出兵の際には、秀吉は家康に名護屋城での留守居役を命じています。その結果、秀吉子飼いの大名たちが海を渡って消耗していくなかで、家康は莫大な兵力をほぼ温存することになりました。

もちろん、これは家康が自ら望んだ配置というより、あくまで秀吉の意向によるものだったのです。

「どうした秀吉?」その3.朝鮮出兵(文禄・慶長の役)

そして、最大の「どうした秀吉?」が、晩年の秀吉が行った朝鮮出兵です。豊臣家衰退の大きな要因となっていくこの遠征は、天下統一を成し遂げた秀吉の壮大な構想とはいえ、その代償は想像以上に大きなものでした。

秀吉の死後、若き秀頼を支えるべき存在は、本来であれば秀吉に臣従してきた豊臣家臣団だったはずです。ところが、長期にわたる出兵は諸大名を著しく疲弊させ、国内の政治状況にも深い亀裂を生みました。

豊臣秀頼公銅像。大阪市・玉造稲荷神社(Wikipedia)

とりわけ、いわゆる文治派と武断派の対立は深刻でした。その溝はやがて修復困難なものとなり、福島正則や細川忠興といった、本来なら秀頼を支える立場にあった大名たちまでもが、最終的には徳川家康の側へと傾いていきます。

その流れは、やがて関ヶ原合戦の行方を大きく左右することになります。そして、その帰結として訪れたのが大坂の陣による豊臣家の滅亡でした。

秀吉晩年の行動が、思いもよらぬかたちで豊臣家の未来を揺るがせていく。朝鮮出兵とは、その決定的な出来事の一つだったと言えるのかもしれません。

人生の最終局面において、ようやく「家」というものの重みに目覚めた豊臣秀吉。その秀吉が、臨終の床で繰り返し口にしたのは、自らの死後、豊臣家が滅んでしまうのではないかという切実な不安でした。

秀吉の歩みを振り返れば、「家」の存続を危うくしかねない決断も少なくありませんでした。それでも病に伏しながら、「どうか皆で秀頼を支えてほしい」と懇願する姿には、どこか痛切な哀しみさえ漂ってきます。

そして1598年(慶長3年)8月18日。稀代の英傑・秀吉は、62年の波乱に満ちた生涯に幕を下ろしたのです。

※関連記事:

『豊臣兄弟!』の聖地巡礼 ──超重要、天下統一の契機「中国大返し〜山崎の合戦」の真相に迫る【前編】

2026年大河『豊臣兄弟!』で注目の舞台──「本能寺の変」豊臣秀吉・秀長が天下に羽ばたくきっかけに【前編】

※参考文献:本郷和人著 『戦国史のミカタ』祥伝社新書

日本の文化と「今」をつなぐ - Japaaan

「どうした秀吉?『豊臣兄弟!』藤吉郎が踏んだ豊臣崩壊ルート…戦国時代、最終局面の誤算とは」のページです。デイリーニュースオンラインは、豊臣兄弟!豊臣秀長豊臣秀次徳川家康戦国時代カルチャーなどの最新ニュースを毎日配信しています。
ページの先頭へ戻る