「長生きは無益」85歳長寿、江戸時代の名医・杉田玄白が晩年抱えていた老いの苦しみと孤独
江戸中期の名医・杉田玄白といえば、『解体新書』の翻訳に関わった人物として有名です。彼の人生でいちばん“厄介”だったのは、病でも仕事でもなく――長生きそのものだったのかもしれません。
玄白は当時としては破格の八十五歳まで生きました。しかし晩年の記録を読むと、その長寿は「めでたい話」で片づけられない苦労に満ちています。
今回は杉田玄白の意外なエピソードを紹介します。
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長寿の裏にあった玄白の本音
江戸時代の平均寿命は、二十一歳を超えた人であれば六十歳前後だったとされています。つまり、玄白の八十五歳という寿命は、当時としてはきわめて長命でした。
ところが玄白自身は、この長寿を素直に喜んでいません。死の前年、八十四歳で書いた『耄碌独語』には、「無病なり、達者なりと羨まるるは、この苦しみを知らざる人の外目より視し所なり」と記されています。
これは「元気そうに見えるだけで、実際は不自由な身体に苦しんでいる」という意味で、周囲からの「無病なり、達者なり(お元気で羨ましい)」という言葉が、玄白にとっては重荷だったことがわかります。
客観的なデータとして、玄白は八十四歳の時点でも和式便器での自力の用足しが可能でした。傍目には健康そのものの老人に見えたはずです。
しかし、本人は筋力低下や尿もれといった老いの症状に悩まされ、日記にはその苦悩が率直に書き残されています。
元気に見えても進んでいた老いの影玄白は若い頃から虚弱体質を自覚しており、鍛錬と摂生を心がけていました。
そのため七十代になっても現役医師として往診に出かけ、『源氏物語』の会や茶道の会にも顔を出すなど、活動的な生活を続けています。
しかし、三十代を過ぎた頃から筋肉量の減少――いわゆる現代のサルコペニアの症状が表面化し、足腰の衰えが急速に進んでいきました。
日記には「小用のために廁へ行くのがつらい」「尿もれは不潔でつらい」といった、老いの現実が淡々と記されています。
興味深いのは、玄白が経済的に恵まれていたにもかかわらず、介護を担う下男下女を雇わなかった点です。
その背景には、当時の価値観がありました。江戸時代では、親の介護は嫡男が担うべきものとされ、家族の世間体も強く影響していたのです。
それで玄白自身は「子どもの世話になりたくない」という思いが強く、結果として老いの苦しみを一人で抱え込む形になったと考えられます。
玄白は表向きは元気な老人として扱われながら、実際には老いの症状に悩み、誰にも頼れない状況で日々を過ごしていたのです。
「長命を願ふハ無益」――玄白が残した老いの真実玄白の最期は文化十四年四月十七日。眠るような死だったとも伝えられていますが、詳細は多く残っていません。
ただ、彼が晩年に記した言葉からは、老いに対する深い苦悩が読み取れます。
玄白は「長命を願ふハ無益の事なり」と書き残しています。
これは「長生きはめでたい」という一般的な価値観とは正反対の言葉で、長寿を得ても身体の衰えや生活の不自由さが増すばかりで、喜びよりも苦しみの方が大きいという実感が読み取れますね。

杉田玄白の銅像(Wikipediaより)
また、玄白の最期の言葉とされる「医事不如自然」というのがありますが、通常は「自然に従った療養が最もよい」という意味で解釈されます。
しかし晩年の発言を踏まえると、「医術を尽くして長命を得ても、良いことばかりではない」という本音が垣間見えるように思われます。
玄白は名医として多くの人を救いましたが、自身の老いだけは治すことができませんでした。老いの苦しみを正面から見つめ、その現実を文章に残した点が、彼の最後の功績だったと言えそうです。
参考資料:
堀江宏樹『日本史 不適切にもほどがある話』三笠書房、2024年
画像:Wikipedia
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