『豊臣兄弟!』理不尽すぎる粛清…15歳の美少女・駒姫、罪なき処刑へ——「秀次事件」の悲劇
NHK大河ドラマ『豊臣兄弟!』第7回で初登場となった、蜂須賀正勝(高橋努)と前野長康(渋谷謙人)の川並衆義兄弟コンビ。
【豊臣兄弟!】後に藤吉郎(秀吉)を支える義兄弟──前野長康と蜂須賀正勝、明暗別れたそれぞれの末路二人の絆が再び結ばれた胸熱の展開が話題になると同時に、前野長康に注目が集まりました。というのも、前野長康といえば、この先、避けられない運命『秀次事件』が待っているからです。
無実ゆえの切腹!?妻子ら30余人が公開処刑、謎に包まれた戦国武将・豊臣秀次の切腹の真相『秀次事件』とは。秀吉の姉とも(宮澤エマ)の長男・秀次が、一度は秀吉の後継者として関白の地位に付くも、突然謀反の罪で切腹となり、家臣ほか妻子39人ほどが公開処刑となった事件。
前野長康は、秀次の宿老(古参の臣)で、秀次を弁護したことが仇となり捕らえられ切腹する最期を迎えたからです。
そのため、「大河で長康がこんなに出てくる!」という喜び声とともに、史実を知る人々からは「この先の末路が…」「『秀次事件』で理不尽な粛清が待っているのに…(涙)」という不安の声も。
処刑された中には、秀次の側室候補だった15歳の駒姫もいました。
東国一の美少女「駒姫」豊臣家に振り回されて、わずか15歳で絶命した悲劇のエピソード「いくらなんでも何の罪もないのに処刑はひどい!」と除名嘆願の声があがり、淀殿(茶々)も後押ししたことで、秀吉は駒姫の処刑を中止を決め、早馬を出しました。
けれどもその早馬は、処刑場まであと100mのところまで来たものの、間に合わず……駒姫は、真夏の京都・三条河原で若い命を失ってしまったのでした。
誰もが認める才色兼備の美少女・駒姫
駒姫は、出羽国(現在の山形県・秋田県)の武将・最上義光と釈妙英(大崎義直の娘)との間に誕生。子供の頃から才色兼備の姫として有名でした。
「容色嬋娟(せんけん)世にすぐれたるのみにあらず、小野小町がもてあそひし道を学び、優婆塞(うばそく)の宮のすさび給ひし跡をも追んとのみ、琵琶を弾じては傾く月の影を招き、花の下に歌を詠じては、移らふ色をいためたり」
(『奥羽永慶軍記』(※)より)
意訳すると、「容姿はまさに絶世の美少女。それだけではなく小野小町が得意とした和歌の道を学び、源氏物語の「宇治の八の宮」が優雅に過ごしたような雅な遊びも追いかけようとしていました。
琵琶を弾けば、まるで沈む月の影を呼び寄せるように美しい音色を奏で、桜や花の下で歌を詠めば、花の色が散ってゆくのをいっそう切なく感じさせてしまうほどでした。」
……というような意味でしょうか。
才長けてながらも、儚げな感じもする美しい少女の姿が鮮やかに浮かぶようです。けれども、その美しさが仇となり斬首される運命を招いたのでした。
※奥羽永慶軍記:江戸時代に秋田の戸部正直によって記された軍記物語
謀反の罪で秀次切腹に巻き込まれた駒姫
駒姫を悲劇に巻き込んだのが、秀吉の姉ともの長男・秀次。秀吉の甥でした。
秀次は、天正19年(1591)、秀吉天下統一最後の戦い「久戸政実の乱」平定後、帰国途中に最上義光の山形城に立ち寄ります。そのとき、まだ11歳ほどだった駒姫も、琵琶を弾くなどの接待をしたそうです。
そして、秀次が一目惚れし、駒姫を側室に欲しいと求めました。もちろん、父・義光は幼さを理由に断るものの、強く要望され仕方なく「15歳になったら」と約束します。
文禄4年(1595)、15歳になった駒姫は、父と共に山形から京都まで出向き、秀次の屋敷である聚楽第に移ります。ところが、その後、突然夫になるはずだった豊臣秀次が、謀反の罪で切腹するという青天霹靂の出来事が起こるのでした。
秀吉秀次が突然「謀反の罪」に秀次は秀吉の養子となり、天正19(1591)年12月には関白職に就きます。けれど、そのわずか4年後、文禄4年(1595)7月15日、秀吉は秀次に対し切腹を命じます。
理由には諸説あります。
・淀君が男子を出産、実子(秀頼)ができ秀次の存在が疎ましくなった
・「秀次に謀反の動きあり」という情報が入った
・秀次は「殺生関白」と悪名が立つほど素行が悪かった
しかしながら、現在では、「秀次の謀反説・殺生関白説は後世の創作」「秀吉は切腹をさせるつもりはなかった」「秀次は潔白を証明するため切腹するも、政権を守るため『切腹して当然の謀反を起こした』ことにした」などの考察がされています。
いずれにしても、秀次の切腹に連座して前述の前野長康駒らは切腹、駒姫ほかの妻妾、侍女たちは処刑されることになったのです。
幼な子を含めた総勢39人が処刑
一説によると、駒姫は、京都に到着したばかりで秀次とはまだ夫婦関係になっておらず、再会もしていない状態だったそう。けれども処刑の対象になってしまったのです。
8月2日、真夏の京都。『関白雙紙(かんぱくそうし)』によると、処刑される女性たちは皆、死装束の白い経帷子を着せられ梵字を書いた手拭いを付け、髪を下ろしていたそう。
小瀬甫庵『太閤記』には、処刑されることを知らず牛車の上で無邪気に母親に抱き付き甘える幼児らの姿をみて、見送る京の人々はこらえきれずに涙したという記録があるそうです。
その光景がありありと浮かぶだけに、胸が締め付けられます。
刑の執行は、三条河原に竹垣を設けて行われました。秀次の正室から始まり次々と側室や幼な子らが斬首され、駒姫は11番目でした。
父・最上義光は、秀吉に必死で娘の助命嘆願を行い、各方面からも「まだ夫婦にもなっていない駒姫を処刑するのは残酷だ」と助命の声があがりました。
淀殿が秀吉に願いでたこともあり、秀吉は「鎌倉で尼になる」ことを条件に、駒姫の処刑中止を決め「処刑中止」の早馬を三条河原に走らせます。
けれど、時すでに遅し。早馬が処刑場まであと100mと迫ったところで間に合わず、駒姫は処刑されてしまったのでした。
あまりにも切ない駒姫の辞世の句
駒姫は辞世の句を残しました。
「罪をきる 弥陀の剣にかかる身の なにか五つの障りあるべき」
(罪も犯していないのにこれから斬られる我が身。もし、お慈悲ある阿弥陀仏の剣であれば、女性の「五つの障り」(※)は断ち切られて、きっと成仏して極楽浄土に行けるでしょう。)
※五つの障:女性が生まれつき持っている五つの障害、煩悩・業(ごう)・生・法・所知で、仏道修行の妨げとなる考え
『太閤記』には、辞世の句がもう一つあります。
「うつつとも 夢とも知らぬ世の中に すまでぞかへる白川の水」
(現実なのか夢なのかわからないこの世の中に、長く住むことなく、私はあの世に帰るのでしょう。澄むことなく、寄せては返る白川の水のように)
取り乱すことない聡明な駒姫らしい辞世の句といわれています。
けれども内心はどうだったのでしょうか。
長旅でやっと京都に到着したと思ったら、突然夫になるはずの秀次が切腹し自分は処刑を言い渡される……そんな悲劇に、いくら武家の娘だからといっても、すぐ納得して受け入れたのではないと思います。
驚きや悲しみ、嘆きや絶望など、人として当たり前の感情が胸の内に嵐のように吹き荒れたのではないでしょうか。
個人的には「罪をきる 弥陀の剣にかかる身の」部分に、“私は何の罪も犯していない”……という、持って行き場のない感情と、それでも処刑を受け止める自分に対しての誇りのような思いを感じました。
恨みつらみの言葉は残さなかった駒姫。「武家の娘らしくい立派な最後だった」と、褒め称えられる句を残したのは、あとに残される父や母を思ったからかもしれません。
「姫はどんな思いで処刑を受け止めたのだろう」と父母が想像して苦しまないように、「私は武家の娘。覚悟を決めましたよ」と思わせたかったのでは。まだ、15歳の少女が、どんな思いでこの辞世の句を詠んだのかと思うと、胸が塞がれる思いです。
豊臣家を見限り徳川についた最上義光
この秀次事件を、人々は厳しく批判しました。
『太閤記』によると、夜のうちに街の随所には
「今日の狼藉は、無法極まる。行く末めでたき政道にあらず。ああ、因果のほど御用心候え」
と書かれたそうです。政権のあまりの残酷さに黙って見過ごすことのできない人々の厳しい言葉。憤りの声が噴き出したのでした。
駒姫の処刑後、母の釈妙英も亡くなりました。娘の死に堪えきれず、自ら命を絶ったのだろうといわれています。
この出来事で、当然ながら最上義光は豊臣家を見限りました。関ヶ原の戦いでは東軍の家康に与して見事勝利に貢献。それで気持ちが晴れるようなことはないにしても、娘と妻の仇をとった一戦といえるのではないでしょうか。
京都.三条大橋そばの瑞泉寺に眠る駒姫
京都の三条大橋の近くにある瑞泉寺は、豊臣秀次とその一族や駒姫を弔うために創建されました。
境内には、秀次の墓を正面に、一族妻子と殉死した家臣ら合わせて49名の墓碑が並び、その中には、駒姫の墓が。今でも多くの人が静かに手を合わせに訪れています。
「蔵を裂き、魂を痛ましめずということなし」と目撃した京洛の衆の嘆く様子が瑞泉寺の縁起には書かれています。「蔵」とは、胸の中の心の奥のこと。つまり、「この所業は胸を引き裂かれて、誰もが魂(心)を痛めた」という意味でしょう。
歴史に「たらればはない」とはよくいわれるものの、京都に出てくる日があと数日違っていたり、秀吉の決断があと少し早く早馬が間に合っていれば、と非常に無念に感じてしまう事件です。
秀次事件に関しては、さまざまな説があるものの、いずれにしても駒姫やほかの女性たち、まだ幼い子どもたちには何の罪もなく、理不尽な処刑をされたことには変わりありません。この秀次事件は「豊臣政権の終わりの始まり」となったのでした。
参考:
駒姫―三条河原異聞―武内涼/著
瑞泉寺公式HP
最上義光歴史館公式HP
日本の文化と「今」をつなぐ - Japaaan


