新撰組・土方歳三と渋沢栄一は“友人”だった!なぜ接点が?──幕末京都に残る意外すぎる証言
境遇の違い
明治の実業家として知られる渋沢栄一は、明治六年に大蔵省を辞めてから民間での活動を広げ、明治二十年には現在の価値で約四億円にあたる所得を得ていました。
一方、幕末の京都で名を上げたのが新選組副長・土方歳三です。苛烈な取り締まりで知られ、武士の世界で生きた人物でした。
この二人が「友人だった」と語られた記録は、渋沢の四男が著した本に残されています。
しかし、立場や出自を考えると、すぐには信じがたい話です。
渋沢は武蔵国の豪農の家に生まれ、一橋家に仕えてのちに幕臣となりました。土方は日野の農家に生まれ、近藤勇らと浪士組を結成し、京都で将軍の警護にあたりました。
文久三年、渋沢が従兄弟の喜作とともに京都へ向かった時、土方も浪士組として京都に入っていました。つまり、二人は同じ年に同じ京都で活動していたことになります。よって、この点については矛盾はありません。
しかし当時の渋沢はまだ若く、立場も収入も土方とは大きく違っていました。
新選組が最盛期を迎えた元治元年には、平隊士の月給が十両、副長の土方はその四倍を受け取っていたとされます。一方、渋沢の年収はその半分にも届かず、生活の規模はまったく異なっていたのです。
二人の境遇は大きく隔たっていました。それでも渋沢が「友人だった」と語った背景には、京都でのある出来事が関係していると考えられています。
二つのエピソード渋沢が京都で務めていた役目は陸軍奉行支配調役というもので、治安や軍務に関わる仕事でした。
ある時、問題人物として知られた大沢源次郎の捕縛を命じられ、その際に新選組が護衛として同行したとされています。
新選組と渋沢栄一、実は幕末の京都で奇跡的に出会っていた――土方と渋沢が認め合った日それで逮捕の場で渋沢が述べた口上が見事だったらしく、土方は渋沢を高く評価したと伝えられています。
渋沢の四男の記録によれば、土方は渋沢に向かって「理論の立つ人は勇気がなく、勇気のある人は理論を無視する。君は両方いける」と語ったとされます。土方は、渋沢の判断力と度胸を認めたのです。
ただ、それだけでは「だから二人は友人だった」とするのは無理がありますね。
もう一つ、渋沢が新選組隊士の恋愛のもつれに巻きこまれ、隊士たちに自宅を襲われそうになったというエピソードも残っています。
この時、普通なら命の危険があったはずですが、渋沢が土方の名を出すと隊士たちは引き下がったとか。
この話が事実なら、渋沢と土方の間には、名前を借りられるほどの信頼関係があったことになるでしょう。
しかしこれは、二人が友人同士だったことを示す傍証に過ぎません。そもそもなぜ二人の間にそのような信頼関係が生まれていたのか、またなぜそれは後世でもほとんど知られていないのか、その点は説明できません。
遊興好きという共通点この二人にはもうひとつの接点があります。夜の世界です。
京都には祇園や島原といった色街があり、当時の若い武士や隊士が集う場でもありました。
もともと渋沢は遊興好きだったとされ、たくさんの妾がいたことで有名です。そして土方もまた京都の夜の世界に通じていました。
実は「超」が付くほど女好き?徳川慶喜への経済支援も行った「渋沢栄一」ってどんな人?二人がこうした場所で交流していた証拠はありませんが、状況から考えると十分にありえます。
もしそうした関係があったとしても、夜の街での遊びが関わってきますから、自伝に書き残すような内容ではないでしょう。そのように考えると、渋沢が土方との交流についてあえて多く語らなかったこと自体も説明がつきます。
渋沢は公の場では誠実な人物として語られ、土方は武士としての厳しさを重んじました。色街での交友に関する話は、どちらにとっても後世に残したくない種類の出来事だったはずです。
それでも、渋沢が晩年に土方の名を聞いて反応を示したという息子の証言は、二人の間に確かな記憶があったことを示しています。
史料には残らないものの、渋沢の心の中には、幕末の京都で出会った土方歳三という人物の印象が強く刻み込まれていたのでしょう。
参考資料:
堀江宏樹『日本史 不適切にもほどがある話』三笠書房、2024年
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