なぜ戦国時代の武将は「鷹狩り」を好んだ?家康もハマった、娯楽だけじゃない政治的な狙い
戦国時代の大名たちは、しばしば鷹狩り(たかがり)を行っていますが、これは単なる娯楽目的ではありませんでした。
実はこれ、領内巡視・軍事演習・権威の誇示・人心掌握を一度に行う“政治的イベント”でした。
鷹だけでなく馬や装備の点検、狩場の整備、立入禁止のお触れまで動く、その段取り自体が、領主の力を見せつける舞台だったのです。
今回は、戦国大名が鷹狩りにこだわった理由を、当日の流れに沿って分かりやすく解説します。
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急に「そうだ 鷹狩りしよう」と言われても、色々と準備が大変なのである(イメージ)
鷹狩りをしようと思っても、すぐ始められるわけではありません。
準備するのは鷹だけでなく、馬や装備品なども問題ないか点検する必要があります。
他にも現地の下見や周囲に対するお触れ(狩場への立入禁止や狩猟禁止など)なども必要でした。
また鷹狩りの日取りを決めるための占いや、成功を願う祈祷なども行われたことでしょう。
そこまでやるか?と思ってしまいますが、鷹狩りは単なる娯楽や気晴らしではなく、領主の威信をかけた一大事業だったようです。
鷹狩りに出立!領内を巡視そうこうしている内に当日を迎えたら、いざ鷹狩りへ出立しましょう。
と言ってもブラっと出かけるわけにはいかず、領主の威厳を人々にアピールしなくてはなりません。
後世の大名行列さながら、手入れの行き届いた武装や、統率のとれた行進をもって精強さを内外に示します。
また現地へ向かうルート選びも重要で、領内を効果的に視察する狙いがありました。
特に反抗的な者が多い地域では、主従ともに武威を示し、眼を光らせたことでしょう。
いざ鷹狩り開始!成果はいかに?
狩場へ到着したら、いよいよ鷹狩りの始まりです。
勢子(せこ)たちが藪や繁みを棒で打ったり、太鼓を鳴らしたりして、鳥や獣を追い立てました。
あらかじめ草木を刈払っておいた広場に獲物が出てきたところへ鷹をけしかけ、一気に仕留めさせます。
鷹が獲物を仕留める雄姿は武勇を象徴し、また狩りの成功は、領主の統治が天意に適っていることを示しました。
もちろんそうなるように家臣たちが現地をととのえるなど、入念に下ごしらえをしたことは言うまでもありません。
賜答の儀式で関係強化かくして鷹狩りがつつがなく終了すると、主従による賜答(しとう)の儀式が行われます。
下位者から獲物が献上され、上位者より賜答(※)されるやりとりを通じて、上下関係や両者の絆が示されました。
(※)褒美を賜うことをもって答える行為。
盟友など対等な関係であれば互いに獲物を贈り合うなど、今後の関係強化につながる配慮がなされたことでしょう。
そして帰り道(凱旋)も、武威をもって帰城。どんなに疲れていても、最後まで気を抜かない心構えが鷹狩りの成功には不可欠でした。
家に帰るまでが遠足ならば、お城に凱旋するまでが鷹狩りだったようです。
終わりに
今回は戦国時代の大名や武士たちが精力的に行った鷹狩りについて、その政治的意義を紹介してきました。準備も大変だったようですね。
現代でも接待や外交の手段として、ゴルフなどの各種レクリエーションが活用されていますが、そのような感覚でしょうか。
鷹狩りはさらに、軍事パレードや防犯パトロールなどの効果も付加されていたようです。
鷹狩りをすれば必ず名君・名将というわけではないものの、名君や名将の多くは鷹狩りを好んでいました。例えば徳川家康などが有名ですね。
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