本能寺の変、原因は“金”だった?信長も直面した「資金繰り悪化」と天下取りの転落ルート
減税・自由化という統治術
織田信長という人物には暴君というイメージがつきまといます。
しかし、残された史料を読み解くと、領主としての信長はむしろ合理的思考の持ち主で、領民からの支持も厚かったことがわかります。
その背景にあったのが、信長の鋭い金銭感覚でした。彼は戦のたびに増税を繰り返した武田信玄とは正反対の姿勢を取っています。
例えば甲斐国を支配した際、部下に渡した注意書に「百姓からは年貢以外の税を取るな」と明記しています。さらに「関所で通行税を取るな」「駒の口で不当な課税をするな」とも命じています。
当時の農民は、領主だけでなく地元の有力者や隣国の領主からも二重三重の年貢を要求されていました。信長はこの悪習を廃止し、農民の負担を大幅に軽減したのです。
ちなみに関所を廃した戦国大名は信長だけで、これは領主にとって大きな収入源を自ら断つ決断でした。
この政策には二つの狙いがありました。
一つは、人口の大多数を占める農民の支持を得ること。もう一つは、反乱の温床となりやすい地元有力者を経済的に弱体化させることです。
さらに信長は、商業の自由化を進める楽市・楽座を採用し、流通を活性化させました。
こうした「減税」と「自由化」を実行できた背景には、信長の家がもともと豊かな財力を持っていたことがあります。
祖父の織田信定は津島湊の利権を握り、貿易で莫大な富を築いていました。信長の初期の余裕のある振る舞いは、この財力に支えられていたのです。
莫大な必要資金しかし、信長の政策は諸刃の剣でした。
彼が天下統一を目指す過程で、必要となる資金は急速に膨れ上がっていきます。
永禄十一年、信長は足利義昭を奉じて上洛しますが、その費用だけで2万貫、現代換算で数十億円規模を使い切ったとされます。
さらに彼は天皇家や朝廷に多額の献金を行い、政治的な地位を固めようとしました。正親町天皇の皇子・誠仁親王の元服費用として献上した金額は300貫、現代の価値で約6,000万円に相当します。
しかし、この献金に使われたのは価値の低い悪銭でした。商人が受け取りを拒否するほどの代物で、実際にはこの時点で信長の財政が逼迫していたことがわかります。
そこで信長は資金を補うため、寺社や商業都市からの強制徴収に踏み切っています。例えば法隆寺からは1,000貫(約2億円)、石山本願寺からは5,000貫(約10億円)、堺から「矢銭(軍資金)」として2万貫(約4億円)といったあんばいです。
ちなみに、商業都市である尼崎からも徴収しようとしていますが、拒否された際には焼き討ちにしたという記録も残っています。
庶民には優しい一方、富裕層には容赦なく搾り取るというのが信長流の資金調達でした。特に寺社仏閣に対する冷淡な態度は極端なほどで、戦国大名で寺社に寄進するケースはあってもここまで露骨に取り立てた人はちょっといません。
しかも、それでも天下取りに必要な資金は足りませんでした。信長は永禄十二年に七か条の法令を発布し、金貨より銀貨のレートを高くするという、現代でいえばインサイダー取引に近い政策を行っています。
さらに生野銀山を武力で奪取しましたが、利益が出るまでには時間がかかり、信長の焦りは募るばかりでした。
資金難と家臣との関係野望が大きくなるほど必要な資金も増え、信長の財政は常に逼迫していました。
そして彼の資金繰りを任されていたのが家臣たちです。彼らは戦で得た領地を管理し、年貢を集め、軍資金を捻出する役割を担っていました。
特に明智光秀は、信長家中でも最大級の稼ぎ頭でした。
実は“カネの亡者”だった戦国武将・明智光秀──人望を金銭で補おうとした資金調達係の末路しかし、信長の要求が次第に過酷になり、家臣たちの負担は限界に近づいていきました。光秀が本能寺の変を起こした背景には、信長の過度な要求や経済的な圧力が影響した可能性もあります。
従来の一般的な「織田信長観」では、彼を「悪人」「意外と平凡」「善人」のどれかに分類する見方が多いですが、それらはあまりにも一面的な見方です。
実際には、彼は勝利を重ねて天下統一へ近づいていく過程で、資金難という困難に直面していましたし、そこで彼の政策方針や家臣との人間関係にも変化が生じていた可能性も十分にあるのです。
参考資料:
堀江宏樹『日本史 不適切にもほどがある話』三笠書房、2024年
画像:Wikipedia,photoAC
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